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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
ブルーノ・タウトの旅
2002年3月23日


 ドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880〜1938)は、桂離宮や伊勢神宮、白川郷の合掌造の民家の素晴らしさを、日本人に紹介した人として知られています。
 1933年(昭和8)5月3日、ウラジオストックから船で敦賀に着いたタウトは、翌日桂離宮を訪れました。門の前に立ったタウトは門の前の垣を十分間凝視し、門をくぐっても一、二歩進んでは一分間ぐらい見つめ、さらに一、二歩進んで立ち止まってはまた見つめる。踏み倒された道端の苔を起こしては、指をハンカチで拭う。そういうことの繰り返しであったといわれます。古書院の月見台では、一時間半もじっくりと過ごしました。あぐらをかくか立つかの姿勢で視点を据えて、二十分間位見つめ、十分間位ノートに原稿あるいはスケッチを描き、あぐらをかいてまた凝視して三十分、涙をポロッとこぼし、同行者も感極まるものがあったといわれます。日記に「1853年来日したペリーによると、来航したアメリカ人は、日本人の礼儀正しい振舞い、日本の婦人、日本画とその巧緻な筆法などからすばらしい印象をうけたのである」と記しています。そのような熱い思いを胸に秘めたタウトは全国各地を旅したのです。

 タウトは1933年国立仙台工芸指導所の顧門として、仙台に来ました。着任して間もない11月12日には、指導所の係員と自動車で、仙台近郊の太白山や鎌倉山の独特な姿を楽しみながら、作並温泉郷に入りました。「すばらしい秋景色ー紅葉した樹々の美しさは心ときめくばかりだ(中略)渓谷に臨んで岩風呂がある。谷間には大小の岩石ーすばらしい眺めだ。自然と人とのこのような結合を私はかって想像だにしたことがなかつた。日本だ!私も湯治をしてみたくなった」と記しています。翌年2月11日には七北田村(仙台市泉区)へ遠出し、「生い茂った竹薮、藁葺屋根の家は可憐なほど簡素でかつ美しい。ドイツのすぐれた農民家屋に似たものもしばしば見かけた」。名刹山の寺洞雲寺にも足を伸ばし、晴天の雪景色の中に、杉林、群生した熊笹、檜皮葺屋根の本堂と山門、禅定窟がひっそりと静かにたたずむ風光を味わい、しばしの静寂を楽しみました。

3月4日は汽車で白石と斎川村(白石市)に遠出しました。「清楚な藁屋根の家屋、村の通りは様式も形も極めて清純で、いささかドイツを偲ばせる、しかし屋根の曲線のもつ独特のしなやかさや全体の柔らかな印象はまったく日本的である。藁と木材と紙(障子)とから成る家屋は、材料からして純粋でありかつ美しい」と記しました。5月25日は、秋田を訪れました。「秋田の人々!卵形の顔と美しい鼻と強い顎をもった快い型の顔立ちである。この人達は、人の顔をじろじろ眺めるような厚かましい眼付をすることがない。農婦の服装は非常に美しい。しかし冬になり、子供達が雪のなかを遊び廻る時こそ、この地方の特色がはっきり現れてくるのだろう」。

 秋田から弘前、青森、浅虫を経て岩手に入ったタウトは平泉を訪れました。金色堂を見たタウトは「この堂は覆堂に被われ、あたかも胡桃の殻に包まれた核の観がある、(中略)内部の荘厳はビザンチン或いはロマン建築を偲ばせる」と記しています。また、能舞台について「洗練された構造で、実に簡素極まりなき建物(中略)中尊寺で最も強い印象を与えるもの」と述べ、自らを「いま汽車の中には旅行鞄とルックザックとを携えたいま一人の新しい芭蕉がいる」と記しました。松島、塩竈を経て東北本線で東京へ向かったタウトは、日記の最後に、芭蕉の『奥の細道』の「月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人なり」を引用しながら、「そうだ!人間の生涯も、自余一切のものも、挙げて逆旅の客ならざるはない。こういう旅行をしてみると、ひとはこの日本全体がまた旅に有ることを知るのである」と締めくくっています。
 この日記は、知性と感性の豊かな当時のドイツ人による日本観や、東北の風物を知る上において欠かすことのできない貴重な資料でもあります。