トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
みちのく宮城に遊ぶー歌枕の国の成立その1
2004年1月31日


  
 宮城県は、古くは陸奥国(むつのくに)といいました。陸奥国というのは青森、岩手、宮城、福島です。秋田、山形が出羽国です。陸奥国は大変面積が広かったため、しばしば東北全体の総称のようないい方がされてきました。この陸奥国はその昔はみちのくといわれました。みちのくとは政治の外、支配の外という意味です。大和朝廷の支配が及ばず、政治が行われず未開、野蛮、化外(けがい)の地という意味です。その後、政治が行われ文化が開かれてきても当時の言葉の使われ方が今日までなされてきたのです。
皆さんは今このみちのくという言葉を聞いたとき、どのようなイメージを持つでしょうか。野蛮な国、未開の国、というイメージをもつでしょうか。いやむしろどうしても行ってみたい、何か大事な忘れていたことを呼びさまさせられるような、そういうイメージを持つのではないでしょうか。それは1000年以上前、ひとつの経緯を経ながら歌枕の国みちのくが成立し、併せてみちのくという言葉の変質が遂げられてきたと考えられています。
 多賀城に国府が設置されたのは今からおよそ1300年前の724年頃のことですが、同時に多賀の都には軍事を司る鎮守府が併設されました。しかし、蝦夷(えみし)との前線は次第に北上して斯波城・徳丹城(岩手県)という多賀城からは160qの北の方に軍事前線が移動していきました。その前線の移動にともなって多賀の都には平和が訪れますが、奈良や京都の都と比べれば遠い異境の都です。異境の都で異境の風物を平和な気持ちで眺める心が、異境の地ゆえに様々な思いを込めた歌を詠わせていったと考えられています。
 また、父や兄、夫、恋人を送り出していたであろう奈良や京の都の人々は、異境から伝えられる、まだ見ぬ異境の美しさに限りない思いをこめた歌を詠っていったのです。
 ですから多賀国府の役人やあるいはみちのくを旅してこちらを見て詠んだ歌と、奈良や京の都の人たちがこちらを見ないで想像して詠んだ歌の二種類があったのです。そうした中で、いまから1150年前860年ごろ、のちに左大臣となる源融(みなもとのとおる)、百人一首には、
  みちのくのしのぶもぢずり誰故に
              乱れそめにし我ならなくに
という歌を残した歌人としても知られていますが、この源融が陸奥出羽按察使(あぜち)という陸奥守と出羽守の上位に位する官職を賜りました。残念ながら源融はみちのくにはやってこなかったと伝えられています。しかし、源融は自分が支配することとなったみちのく、とりわけ松島の美しさを噂で知っていたのです。京都加茂川六条河原に風雅の限りをつくした庭を造りました。いまでも京都には塩釜という地名が残っていますが、伊勢物語によるとこの庭は、「わがみかど六十余国の中でしほがまといふ所ににたるところなかりけり」つまり、日本のなかで塩竈の浦ほど美しいところはない。この庭は塩竈の浦、いわゆる松島を模したものである。雅(みやび)をもって任ずるものはこの庭を見ずしてどうして風流を語れようかとまで噂され、京の都の人々は競ってこの庭を見にきたといわれています。この庭の池にはたくさんの魚介が放され、みちのくの塩竈の浦の景を写すために毎朝難波の海から潮水を運び、庭には釜をたて塩を焼いたとまでいわれる、当時の塩竈の浦を模したような大変凝った庭を造ったのです。
 残念ながら、この庭は源融が亡くなった後はすっかりと荒れ果ててしまいます。何年かあとに訪れた紀貫之はこの荒れようを惜しんで、
  きみまさで煙たえにし塩釜の
             うらさびしくも見えわたる哉
  という歌を『古今和歌集』にとどめています。この庭が源氏物語の夕顔が変死を遂げた「なにがしの院」のモデルになった邸(やしき)の庭ともいわれ、また、現在の京都東本願寺別邸渉成園(しょうせいえん)、別名枳殻邸(きこくてい)がその庭跡であるとも伝えられていますが、そのような庭を造って都の人々にみちのくとりわけ松島の美しさを喧伝していったのです。
 ところで、源融が模したという塩竈の浦いわゆる松島は国府の海です。みちのくの風流は国府の風流として始まったのです。そして、国府多賀城はみちのくの都であります。みちのくの雅(みやび)と京や奈良の都の雅が国府多賀城を通して一つに落ち合い、平安宮廷文学に新しい歌の泉を注ぎ込んでいったのです。かつて、一昔前、九州筑紫の太宰府がそのような雅(みやび)を実現して、万葉集に優れた一画を形成したように、みちのくがそのような雅を実現し、優れた一画を形成していったのです。こうして、宮廷みちのく歌を通じて空想化され美化されたロマンの世界、歌枕の国みちのくが成立したと考えられています。