源融が庭を造ってから100年も経つと、みちのくに旅をするということはそのまま風流を意味するまでに高められていました。左近衛中将という大変高い官職にあった藤原実方(さねかた)、百人一首には、
かくとだにえやはいぶきのさしも草
さしも知らじな燃ゆる思ひを 後拾遺和歌集
という歌を残した歌人としても知られていますが、ある粗相の振る舞いがあったということで、陸奥守として更迭をされてまいりました。
どういう粗相の振る舞いかというと、あるとき殿上人(てんじょうびと)が連れ立って、東山に桜を見に行ったのです。皆が桜を見ているとき、にわか雨が降ってきました。皆が立ち騒ぐなか、実方は逃げることもせず、桜の枝の下に入って「桜狩雨は降りきぬおなじくは濡るとも花の影に隠れむ」と詠んで全身がずぶ濡れになるのも忘れて、ただ陶然と桜の美しさに見とれていました。当時の風流の観念からいえば風流これに極まれりという振る舞いをした人ですが、のちにこの日のことを藤原斉信が一条天皇の前にまかり出たとき、逐一詳細に報告をして、最後に何と実方朝臣(あそん)は風流な方でございましょうかと称揚して報告をしたのです。
それを傍らで聞いていた藤原行成という人が歌は結構だけれども、その振る舞いはおこがましいことだと評しました。これを噂に聞いて恨みに思っていたのでしょう。実方はあるとき宮廷でこの行成と些細なことで争ってしまい、手にしていた笏(しゃく)で行成の冠を床の上に打ち落としてしまったのです。これを見答(とが)めた一条天皇は実方を陸奥守として更迭をしますが、そのとき天皇は実方に与えた言葉、『源平盛衰記』によると、
「歌枕見て参れとて陸奥国の守になしてぞ遣わされける」
であります。おまえもみちのくに行ってみちのくの美しい風物に接してくると、もっと風流、雅を解するようになるだろうという意味でありますが、900年代ともなるとみちのくへの旅はそのまま風流を意味するまでになっていたのです。
風流人、実方がみちのくの土に化すことによって、さらに都の人びとはみちのくに限りない思いを込めた歌を詠むようになったのです。実方が亡くなってから150年ほどして、今から850年前西行が歌枕を訪ねてみちのく入りをしました。名取の愛島(めでしま)付近にさしかかると塚があったので、通りかがりの里人に、従者を通してこれは誰の塚であるかと尋ねさせました。中将の墓でございますと答が返ってきたので、再び従者を通じていずれの中将かと尋ねさせたところ、実方朝臣のことでございますという返事が返ってきたのです。実方が亡くなってから150年を経ても、里人は実方のことをしっかり記憶にとどめていたのです。そこで西行は、
くちもせぬその名ばかりをとどめおきて
枯野の薄(すすき)かたみとぞみる(新古今和歌集)
と大変哀み深い歌一首をとどめました。
西行が訪れてから更に、550年ほどして松尾芭蕉が能因歌枕を訪ねてみちのく入りをしますが、実方の墓を見いだそうとして見だせず泥濘に足を奪われながら、
笠嶋はいづこさ月のぬかり道
と奥の細道にとどめていますが、能因歌枕を訪ねてみちのく入りをし、実方中将の墓を詣でることがまるで歌人や俳人たちにとってあたかも聖地を訪れるような、敬虔(けいけん)な巡礼のおもむきすらおびていました。こういう経緯を辿りながら歌枕の国みちのくが成立をし、併せてみちのくという言葉の変質が遂げられていったと考えられています。
|