目をはるか南に転じると広大な田園が広がっています。
阿武隈川によって育まれた亘理耕土、名取川によって育まれた名取耕土です。
亘理耕土に育まれた山元町・亘理町は、本県農業振興にパイオニア的役割を果たしてきました。明治初期にはこの地域からは2800名の進取の気質に富んだ人々が、北海道開拓に従事し多くの困難を克服して、北海道の農業に輝かしい足跡を残し伊達市という名をとどめました。亘理、山元に残った人々は、戦後いち早くイチゴの栽培に取り組み広く全国にその名を知られています。東北一のイチゴの産地、カーネーションをはじめとする園芸の主産地づくりに積極的に取り組んでいます。
名取耕土は、名取市、岩沼市の豊かな歴史と文化を育んできました。なだらかな丘陵を含むこの一帯は古くから開け、名取市植松には東北地方最大の前方後円墳・雷神山古墳をはじめ30を超える古墳群が確認されています。農業の試験研究の拠点である県農業センター、園芸試験場があり力強い農業を振興するための試験研究を行っています。都市近郊の有利性を生かした野菜や花などの園芸農業に力を入れ、最近は自宅を活用した農家レストランの新しい試みもなされています。
岩沼市は、1000年前能因(のういん)が訪れ、
武隈の松はこのたびあともなし
千歳をへてやわれは来つらん 『後拾遺和歌集』
と詠った武隈の松(二木の松)があり、能因ゆかりの竹駒神社があります。
この辺は古くから開けたので多くの物語や伝説も秘められています。その一つが「名取老女物語」です。
昔、名取の老女という年老いた女人がいました。若い頃から神を崇拝する心が厚く、毎年欠かさず紀州(和歌山県)三熊野へ詣でていましたが、寄る年波には勝てず遠路を旅することができなくなりました。そこで三熊野を名取りの里に勧請し、年詣・日詣のつとめをいとなみ毎日を暮らしていました。名取川の川上を紀州熊野の音無川と見たて、証誠殿を祀り、南の山麓に新宮、川上のたきまえに那智宮を配したさまは、三熊野の再現かと思われました。
ある日、この里にたどり着いた一人の旅の山伏がいました。熊野本宮で通夜の最中、霊夢に現れた神のお告げによって、はるかなる道のりを経てきた山伏の手には、一枚の梛の葉が握られていました。熊野の神より託されたというこの梛の葉は虫食いのあとがあり、文字のように見えました。老眼の女主人にかわって山伏が読み上げたその文字は、
道遠し年もやうやう老いにけり
思ひおこせよ我もわすれじ
というもので、この神歌を聞かされた老女は感涙にむせんだといわれます(永正二年熊野社縁起)。この説話は、『新古今集神祇歌』『袋草紙』にもみられ、「護法」と名づけられ、古くは「名取老女」ともよばれた謡曲の有名な一節で、平安末、鎌倉初期において、老女の伝説は早くもそのかたちを都の人びとの前にあらわしていたのです。生産・道中安全を約束する神として尊敬され、熊野詣でをするものはこの墓にお参りしてから出発する慣習となっていました。
名取と岩沼にまたがる仙台空港は国際空港としてさらなる発展が期待されています。目をはるか南に転じると広大な田園が広がっています。
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