トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都に刻んだ宗久の想い出
2004年8月21日


  
 『都のつと』は、観応(1350〜52)の頃、筑紫(九州の古称)を出て諸国を放浪した、宗久(生没年未詳)の紀行文です。春3月に上京した後、修行のため東国への旅を思い立ち、東海道を下りました。旅の道すがら歌枕を訪ねて鎌倉まで辿り着きましたが、ここで旧知の人の他界を知り、常陸(茨城県)、甲斐(山梨県)などを遍歴して秩父(埼玉県西部)で年を越しました。そして春、上野(群馬県)へ行く途中、風流人のもとに引き留められましたが再会を約して辞し、8月に寄ってみるとその人の初七日にあたっており、無常迅速を驚き、追悼の和歌と言葉を遺して去りました。以後、白河関を越えて陸奥国に入り、歌枕を訪ねて塩竈、松島を巡り、またその時々、各地で様々な見聞を重ねながらの旅でした。その後、帰途につき武蔵国(埼玉県・東京近辺)で道連れを得て、末の松山や塩竈の土産を贈って歌を贈答し、帰京の途につくに当たり、道中の名所の印象を、忘れぬうちに記しておき、これを「都のつと(土産)」にするのだというところで、筆をおいています。
 宗久は早朝都を出、近江国(滋賀県)で、
  立寄りて見つと語るな鏡山
       名を世に留めん影も憂ければ
と詠み、東路の名所・歌枕の不破関(岐阜県関ヶ原町)、鳴海潟(名古屋市)、高師山、二村山(愛知県豊明市)を経、佐夜の中山(小夜の中山、静岡県南部)に入りました。
  こゝはまたいづくと問へば天彦の
答ふる声も佐夜の中山
 白河関では、先人のことを偲びました。
  都にも今や吹らむ秋風の
        身にしみわたる白河の関
 出羽国では阿古屋の松を見、陸奥国では浅香の沼、阿武隈川を訪ね、武隈の松の陰に旅寝して木の間越しに月を眺めながら思いを巡らしました。名取川を渡って宮城野に入り、その風情に感動。ほかと異なった色をした萩を一枝折り、人の住んでいた往時を偲び和歌一首を詠みました。   宮城野の萩の名に立本荒の
       里はいつより荒れ始めけん
 国府多賀城に到着、末の松山を訪ね、松原越しにはるばる見渡すと、本当に波が越すように見え、釣舟も梢を渡っているように見えました。
  夕日さす末の松山霧晴れて
       秋風通ふ波の上かな
 塩竈に到着し塩を得るための藻を焼く煙を眺めながら、うら寂しい気持ちになりました。
  有明の月とともにや塩竈の
         浦漕ぐ舟も遠ざかるらん
 僧衆百人住すといわれる松島円福寺、五大堂を眺め雄島を訪ねました。来迎の三尊が安置され、南の方には遺骨を納める場所があり,仏教に帰依した人々の元結なども多く見られ、心も厳粛にまた澄み渡り2〜3日留まりました。
  誰となき別れの数を松島や
       雄島の磯の涙にぞ見る
 もう引き返そうともと来た道を辿り、武蔵国で歌道の心得のある人に出会い、末の松山や塩竈で拾った松笠や貝殻を取り出し見せたところ、松笠や貝殻などではごまかされず一緒に行きたかったことを残念に感じると、次の歌を詠んで宗久に贈りました。
  末の松山まつかさはきたれども
なみだにこさばまたやぬれなん
 そこで宗久は、一層朽ちることのない2人の愛情の程を思い知って、次の返しの歌を詠みました。
  浪こさぬ袖さへぬれぬ末の松
      山まつかさのかげのたびねに
 これに対し彼は、私はあなたと一緒に旅をしたかったと、次の歌を宗久に贈りました。
  伴はで一人行きけん塩竈の
         浦の塩貝見る甲斐もなし
 そこで私は、塩竈の浦を見に行ったのもつまりあなたのためだったのですよと、次の返しの歌を贈りました。
  塩竈の浦みも果ては君がため
         拾ふ塩貝甲斐やなからん
と二人は親しい間だからこそできる歌を交わしました。
 そのあと宗久は、心向くままさまよい歩くうちに、さすがに故里が懐かしくなり、宿の壁に向かって残り灯をたよりに、万感の思いを込めて「都のつと(土産)」に旅のあらましを綴ったのです。
 宗久の訪れた頃の多賀城は、南朝・北朝の興亡が繰り広げらていました。松島は鎌倉将軍家御祈願所・関東祈祷所円福寺の所在地。20年ほど前鎌倉幕府が滅びますが「奥の高野」といわれ、多くの人々の尊崇を集めていた場所ですが、多賀城はこのころを境に急速に歴史の表舞台から消え去っていきました。松島円福寺もそれから100年後、応仁の乱を境に次第に衰微していったのです。