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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
武将歌人、政宗
2002年3月30日


 仙台藩祖となる伊達政宗は1567年、出羽国(山形県)米沢城で生まれました。遅れること武田信玄より46年、上杉謙信より37年、織田信長より33年、豊臣秀吉より31年、徳川家康より25年、まさに戦国時代も終わろうとしていたとき誕生したのです。
 政宗は自ら主導権を握って戦いをしたのは18歳で家督を相続し、23歳で宿敵葦名氏を磐梯山麓で撃破し奥羽64郡のうち30余郡を手中にしたまでであります。24歳で小田原に参陣、32歳まで8年間秀吉に臣従、何度も危機に見舞われますが、才知と家臣の奔走、徳川家康らの支援によってそれを乗り越えました。朝鮮へも出陣し、また歴史的にも名高い吉野の観桜会にも列席し、歌人としての高い評価を得ました。前田創業期には、「秀吉和州(奈良)吉野にて歌会を催す。公(前田利家)及び天下の諸将皆之に従う。花を見て意を娯しめ、詩を吟じ歌を詠ず。なかんずく伊達政宗辺鄙賤地に生きるといえども和歌にくわしく、最も人に秀でていた」と記し、秀吉は政宗を「鄙の華人」と激賞しといわれます。

 秀吉が逝去したあとは長女五郎八姫と家康の6男松平忠輝が婚約、さらに嫡子忠宗と家康娘市姫(夭折したため孫振姫)と婚約徳川家との結びつきを強め、江戸幕府草創期に大きな役割を果たしました。家康そして秀忠が亡くなるとき、ともに政宗に後事を託しました。優れた数多くの詩、和歌も残しました。50歳の時、16歳の息子を失ったときの悲しみを「いとけなき人は見果ぬ夢かとようつつに残る老の身ぞうき」と、母との永訣を「鳴く虫の声を争う悲しみも涙の露ぞ袖にひまなき」と万感の思いを込めて詠じています。四季の移ろいを詠んだ歌も残されています。「春風も外山のおくも雪消えてのどけき空に帰る雁がね」「見る度に気色ぞかわる富士の山はじめて向う心地こそすれ」「谷深く冬ごもりせし鶯の今日の初音に声ぞしるけき」「咲きしより散るをならいの花ながらおくるる春は悲しかりける」。春雪という題で、「余寒去ることなく花のひらくこと遅し 春雪夜来積らんと欲する時 手にまかせてなおくむ三盞の酒 酔中独り楽しむ誰か知る有らん」という詩も残しました。

 70歳の正月と春を仙台城で穏やかに迎えた喜びを、「年と春と同じ日影に廻り来て治むる御代の例(ためし)しるけき」と詠み、狩猟に出かけますが体調が勝れなかったのか、家光に話しておきたかったことがあったのか、「旅たたん程も無き間の花ざかりながめてもまた名残いくばく」という歌を残し江戸に向け旅たち、再び仙台に戻ることなく死去しました。
 幕府の正史徳川実記は、「政宗の生まれたのは戦国の世である。伊達家は代々武勇の誉れが高かったが、なかでも政宗はとくに勇将で、ついに宿敵葦名氏を滅ぼし、みちのくに覇をとなえた。政宗が攻め落とした城、手中におさめた地は数えきれない程である。元和になって戦国の世が終わり平和になると、泰然自若としていささかも動ずることはなかった。かつ天命を知って人臣の礼を失うことがなかった。自らの国の安泰を守り栄光を子孫に伝えたが、その出所進退を誤らなかったことは、当時の多くの優れた大名や武将のなかでも、特別に勝っていたといえる。(中略)政宗の時に随い世に応じての行動は、過去の歴史を見てもまさに抜きんでて優れていたと言えるだろう。その政宗はまた武勇の士であると同時に詩を書き歌を詠むという風流な武士でもあった。花鳥風月のなかで老境を楽しんだのは類まれなことであろう。いつの頃作ったのか゛馬上の少年は過ぎ 世は平らかにして白髪多し 残躯天の赦すところなれば楽しまずしてこれ如何せん゛という詩があるがたいへん優れた詩だと思う」と記し最大限の弔意を表しています。政宗の廟所瑞鳳殿は翌年完成しますが、国宝に指定され豪華絢爛な桃山文化を伝えたこの廟は、昭和20年6月10日未明の仙台空襲によって2代、3代の廟所と共に灰燼に帰してしまいました。
 かたはらの秋ぐさの花かたるらく
       ほろびしものはなつかしきかな  若山牧水