トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都に刻んだ丸山河澄の『奥羽道記』
2004年8月28日


  
 1688年(元禄1)みちのくを訪れ多賀城碑を見た松尾芭蕉は、『奥の細道』にその時の感動を、次のように記しました。
 「つぼの石ぶみは、高さ6尺余、横3尺ばかりか。苔(こけ)を穿(うがち)ちて文字かすかなり。四維国界(しゆいこくかい)の数里をしるす。この城、神亀(じんき)元年、按察使(あぜち)鎮守府将軍大野朝臣東人(あそんあずまひと)の所里也。天平宝字6年、参議東海東山節度使(とうさんせつどし)、同じく将軍恵美朝臣朝□(えみのあそんあさかり)修造而。12月朔日と有り。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみおける歌枕、おおく語り伝えといえども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかわれば、時移り、代変(よへん)じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかり也」と記しています。
 松尾芭蕉が多賀城を訪れてから3年を経た1691年(元禄4)水戸藩主徳川光圀の家臣丸山可澄(よしずみ)が、多賀城を訪れました。当時、光圀は『大日本史』を編纂するため各地の資料を収集しており、『奥の細道』を通して、苔むしている多賀城碑についてもそのおかれている状態に思いを馳せたのでしょう。可澄が訪れる前年、光圀は仙台領内にある多賀城碑が「文字もこけむしたるところありてなかなか急に写しかねたる」と放置されていることを知り、貴重な碑がこのままではと、仙台4代藩主綱村に書簡を送りました。
 光圀はこの書簡の中で、「下野那須領湯津上(しもつけなすゆづかみ)にある那須国造碑(こくぞうのひ)にふれ、近年石碑を修復し、その上に小亭を建て、側に小庵を構え、別当を置いたことを記しています。そして陸奥守殿御領内の壺の碑の石碑は古今かくれなき碑であるが、近来破損しているということを伝え聞いている。御領内のことを外からとやかく言うのは失礼だと思うけれども、なにとぞ修復を加え、碑の上に碑亭を建て、末永く伝えていくよう願っている云々」と綱村に対し、保存措置を講じるよう要請したのであります。仙台藩はこれを受けて保存措置に乗り出しました。
 可澄の旅の目的の1つは、この多賀城碑がどうなっているかの確認調査でもあったのです。  可澄(1657〜1731)は、18歳の時、光圀に仕えて彰考館に入館。佐々介三郎宗淳(むねきよ)に随伴して九州、中国、北陸地方等に史料採訪を行っています。また花押(書き判)や神道の研究にも大きな功績を残しています。耳囗羅病という苦境の中で在職57年間『大日本史』編纂事業の土台を支え、光圀に仕えた人であります。水戸黄門漫遊記で助さんのモデル佐々介三郎宗淳、格さんのモデル安積寛兵衛らとともに、『大日本史』編纂にあたった10数名の館員の1人でありました。
 元禄4年4月2日水戸を出発した可澄は、太田、棚倉、白川、須賀川、郡山、二本松、福島、国見を越え、8日に白石に入りました。9日には大河原、舟迫、岩沼、名取、長町を経て、10日仙台に入り、宮城野、壺碑、野田玉川を見てそれらを記録にとどめました。
 壺の碑について碑の大きさ、石の状態、字の大きさ、先に綱村から送られた写しとの確認もしました。また、文字も苔むしたところがあり書写がなかなか難しく写しかねたところは石摺りにして光圀の基に送った旨などが記されています。
   そのあと塩竈を訪れ、11日に松島を見、大松沢、三本木、古川、高清水、有壁、平泉、水沢、相去、花巻、盛岡と廻り、6月9日水戸の戻りました。
 助さんのモデルになった佐々介三郎宗淳が訪れたのはその数年後です。宗淳らは、光圀の意を受け、全国各地を廻ったのです。宗淳は史料探訪、修史総裁、湊川建碑、那須国造碑修復などに、遺憾なく手腕を発揮しよく光圀の期待にこたえました。
 そのほかにも芭蕉3回忌を期して「奥の細道」追慕の旅をした蕉門の俳人天野桃隣はその著『陸奥鵆(むつちどり』のなかで、碑に触にふれ「壺の碑、多賀城鎮守府将軍古館也。神亀より元禄まで千歳に近し。(略)此所より八幡へ1里余、細道を分け入り、八幡村百姓の裏に沖の井あり。3間4方の岩、廻りは池なり。処の者は沖の石という。これより末の松山、むこうに海原見ゆ。千引の石此辺といえども、所の者かって知らず」と記しています。また奥羽の戦国争乱を奥羽全域にわたって通観した唯一の戦記物語である『奥羽永慶軍記』等も、碑について「壺の碑をみるに千年を経るといえども文字ありありとしている」と記し碑文を紹介しています。
それから300年の悠久の時を経過しました。時には、心静かな気持ちで碑の前に佇み、往事をしのぶのもいかがなものでしょうか。
  みちのくの奥ゆかしくぞ思ふゆる
    壺のいしぶみ外の浜風 西 行