みちのくの歴史と文化を語るとき、今から1300年前多賀城に国府が設置されたことと、国府の前面に「塩竃の浦」いわゆる松島という日本有数の景勝地があったということは、忘れることのできない大きな要素であります。多賀城がみちのくの都として存在していた期間は約600年にわたります。そのなかで、青森、岩手、宮城、福島の四県は、昔は陸奥国といいました。秋田と山形は出羽国です。陸奥国は、大変面積が広かったため、しばしば東北全体の総称のような用いられ方がなされました。
陸奥国はその昔は道の奥の国、「みちのく」といっていました。「みちのく」とは政治の外、支配の外という意味で、大和朝廷の政治支配が及ばず、文化が開かれていない、未開、野蛮、化外の地(朝廷の教化の及ばない土地)という意味が込められています。その後政治が行われ文化が開けても、当時の地名がそのまま今日まで使われてきました。しかし今では「みちのく」という言葉のイメージも、旅に誘われ一度は行ってみたいとあこがれる、そんなロマンに満ちた未知の国を指すようになりました。それは、1000年以上前、次のような経緯を経ながら、言葉の変質をとげ、歌枕の国みちのくが成立したと考えられています。
多賀城に国府が設置されたのは、724年(神亀1)頃といわれていますが、同時に軍事を司る鎮守府も併設されています。そして次第に、蝦夷との前線は多賀城から百数十キロも離れた斯波城・徳丹城(岩手県)と北に移動し、多賀の国府には平和が訪れました。しかし、平和になったとはいえ、都から遠く離れた異郷の地であることには変わりありません。異郷の地で異郷の美しい風物を平和に眺める心が、遠く都から多賀の国府の役人としてきていた人びとをみちのくへと誘い込んで行ったと考えられます。みちのくの美しさを愛でた和歌を詠んでいきます。また、都の人びともみちのくから伝えられるみちのくの美しさに限りない想像心をかきたてられながら和歌を詠んでいったのです。そうした中で800年代中頃、後に左大臣となる小倉百人一首の、「みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れそめにし我ならなくに(古今和歌集)」で知られる源融(みなもとのとおる)が按察使という陸奥守、出羽守の上位にくらいする高い官職を賜ったのです。このような身分の高い人は、遠いみちのくへはやって来なかったともいわれていますが、融は当然自分の支配することとなったみちのくの美しさは噂で知っていたのです。京都賀茂川六条河原に風雅を尽くした庭を造ったのです。伊勢物語によるとこの庭は「わがみかど60余国の中で、しおがまという所ににたるところなかりけり」つまり、日本の中で塩竃の浦ほど美しいところはないが、この庭はその塩竃の浦(松島)を模したものであると記されています。「雅をもって任ずるものは、この景を見ないでどうして風流を語れようか」とまで噂され、都の人びとは競ってこの庭を見に来たということです。
この庭にはいろいろな魚介が放され、みちのくの塩竃の浦の景を写すために、毎日難波の浦から潮水を運ばせて、庭にたてた塩竃で潮を焼かせるなど、その凝りようは大変なものだったといわれています。残念ながらこの庭は、源融の死後まもなく荒れ果ててしまいます。のちに訪れた紀貫之は、その庭の荒れようを惜しんで、「きみまさで煙りたえにし塩竃のうらさびしくも見えわたる哉」の和歌を古今和歌集に残しています。この庭は、「源氏物語」の夕顔が変死を遂げた「なにがしの院」のモデルになった邸の庭ともいわれ、現在の京都東本願寺別邸渉成園、別名枳殻邸がその庭の跡であるという説もあります。そのようなさまざまな話題を呼んだ庭を介して、都の人びとは遠いみちのくの塩竃の浦の美しさを知るようになりました。そして遠いみちのくに遥かな想いを馳せて、たくさんの人たちが和歌を詠んだのでした。
ところで、源融が模したという塩竃の浦、いわゆる松島は国府の海です。みちのくの風流は国府の風流として始まりました。そして国府多賀城は、みちのくの都です。みちのくの雅と都の雅が国府多賀城を通じて一つにとけ合い、平安宮廷文学に新しい和歌の泉を注ぎ込んでいったのです。
かって九州筑紫の大宰府がそのような雅を実現し、「万葉集」における一地域であったように、みちのくも独自の雅を完成させ、ある時期の平安文学に、優れた一地域を形成したのです。こうして、宮廷におけるみちのくの和歌を通じて、空想化され美化されたロマンの世界、歌枕の国みちのくが生まれたのです。
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