トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
古都
2005年3月21日


  
  遠山に日の当たりたる枯れ野かな   虚子
 古くは遠山の里といわれた登米町の北側にある小高い丘から遠望すると、遙か南から西にかけて奥羽山脈が連なり、手前に広大な仙台平野が広がっています。360度の眺望を拒んでいるのは、町のすぐ南にある中世葛西氏の居城保呂羽城址とその後方に聳える箟岳の山々です。この山は1250年前大伴家持が、「すめろきの御代栄えむと東なるみちのく山にくがね花咲く」と詠ったわが国初めての産金地であります。
 東には北上の山々が連なりそれに沿うように北上川がゆったりと流れています。この北上川に沿って多くの人々が行き交いました。320年前には松尾芭蕉が石巻から一関に向かう途中で登米に一泊しました。150年前には憂国の思いを胸に吉田松陰が、一関から石巻へ向かう途中で一泊しています。河東碧梧桐、板垣退助、尾崎行雄などたくさんの人々が登米を訪れ、想い出を刻んでいったのです。
 藩政時代13代の歴史を刻む登米伊達氏の初代宗直は、慶長9年(1604)水沢(岩手県)から登米に入城しました。登米小学校校歌「三百余年古の 郷土の歴史物語る 戦いの後 荒廃の跡を開きし 我が祖先」は当時の苦しい開拓時代を歌ったものです。
 明治になって登米町には、登米県そして水沢県の県庁が設置されました。のちに総理大臣になる斉藤実、東京市長・内相兼帝都復興院総裁をつとめた後藤新平らは、多感な少年時代を水沢県庁の職員として過ごしました。
 舟運の重要な中継地として栄えた登米は、明治24年東北本線の開通によって急速に衰え、地域の拠点としての吸引力が衰微していきました。昭和27年5月には大火のため貴重な武家屋敷の多数が焼失しました。いまに残る建物は大火からまぬがれたものです。
 町はここ20年マスコミに取り上げられ多くの観光客が訪れるようになりましたが、この町の素晴らしさは建物や祭事の表面的なものよりは、それを支える奥の深い歴史や伝統文化がいまに息づいていることです。
 町民総参加の秋祭りは、藩政時代から引き継がれてきた伝統行事で、町内会単位で自主的に準備し実行しているものです。薪能、神楽、俳句、仕舞、茶道いずれも藩政時代から脈々と引き継がれてきたものです。
 いま登米町は大きな岐路に立たされています。それは今年4月に9町と広域合併することですが、それは登米に住む人々の伝統行事や生活のあり方には影響を与えないものと考えられます。すべての行事が住民主体で行ってきたものでありエネルギーの発露が住民自身にあるからです。しかし一方、少子・高齢化を迎え課題も山積しています。
 登米の見所は何といっても小高い山の頂から見る眺望です。大河北上川の悠々とした流れ、三方を山で囲まれその間に広がる町並み、南西に開ける広大な田園は四季折々の移ろいを私たちに伝えてくれます。堤防に立って下流に目をやると、湖のような澄み切った川面が目に飛び込んできます。繋留されている小舟の側で作業している様子は、日本の原風景を彷彿とさせます。町中に足を踏み入れると幕末から昭和初期の町並みが現れます。白壁の土蔵の数も多く、藩政時代から昭和とそれぞれの時代のものが混在し、独特の調和を保っています。町のいたるところに見られる句碑は、訪れた文人・墨客の記念の証です。彼らはどんな思いで、時を停止した登米の町に想い出を刻んだのでしょうか。寺池城址公園には石垣の一部が残り、数百年の年輪を刻んだ松の古木が地面にはうように枝をのばしています。城址の一角には伊達家ゆかりの展示施設「懐古館」があります。小さい施設ですが展示品は一級品です。城址公園の一角に句碑があります。
  淋しさは帰燕の空のあるかぎり   原田青児
 自分の半生に重ね合わせながら句を口ずさみ坂を下ると、旧水沢県庁舎の建物が見えてきます。往時の登米の繁栄が目に浮かぶようです。そばには物産館「遠山の里」が建っています。観光客に対応するため、何年か前に町が設けたものです。藩政時代から伝えられた地元の伝統ある物産が展示即売されています。「松笠風鈴」「油扶」「味噌」「天然スレートの工芸品」など、地元にゆかりのあるものばかりです。食堂もあるので時間の調整にも使えます。また町中には伝統あるウナギを食べることのできる店や、麦芽でつくる飴を作っている店もあります。休憩施設春蘭亭では抹茶を楽しむこともできます。 そこから100メートル、明治18年に建設された国重要文化財尋常登米小学校が見えてきます。中には教育資料や授業の様子を再現した教室もあります。教科書を読んでいる子ども達の姿はまるで生きているようです。戦前の日本の教育の様子が手に取るようにわかります。森舞台と名付けられた能舞台もあり、春秋2度薪能が行われます。
 町の北側に尋常登米小学校とよく似た建物があります。旧登米警察署です。いまは警察資料館として、貴重な警察資料が展示してあります。近くまで山が迫っていますが、この山沿いに本覚寺、葛西家の菩提寺龍源寺、専称寺、登米八幡神社、そして伊達家菩提寺養雲寺があります。小さいけれどみな古い歴史を感じさせる神社・仏閣です。養雲寺に隣接した小高い山に、登米伊達家の御廟があり、往時を追懐することができます。
 登米町は小さい町ですが、大変奥の深い歴史や文化を持っています。観光のニーズも多種多様になっています。従来のような大型バスで移動し、大きなホテルで宿泊し飲食するような時代はもう限界にきているのではないでしょうか。いろいろなことを体験し考え自らを高め、明日へ向かって心を切り替えるそんなものがいま強く求められているのではないでしょうか。登米町にはそれに答えうるたくさんの素材があります。それらを立体的に組み合わせ、物語性を持たせることによって新たな地域活性化の起爆剤になることを期待している昨今です。
  黎明の時を刻みし先人の
      うすくれないに煙る城跡   宗弘
           古都保存財団季刊誌『古都』に掲載)