大八は、のち守信と称したと伝えられる。幸村長男大介は5月7日大阪城で自害し果てた。守信はときに4歳、真田氏を称するのを憚り片倉久米之介と称し、食客扶持千石を給せられた。二代藩主忠宗のとき仙台藩士に列し三百石、永代召出の格となり、その後武頭(ぶがしら)を命じられたという。1678年(寛文10)59歳で没し、当信寺の姉の側に葬られる。のち子孫は旧姓真田に復したが幕府に憚り、真の系図は明治維新まで秘匿され伝えられた。幕末には兵学家真田喜兵太を輩出、幕末から維新にかけて仙台藩の軍政に深く関与した。維新後は石巻に隠棲、花鳥風月を愛し静かな余生を送ったという。いまその名跡は仙台に伝えられる。
さて政宗の正室愛姫の生家三春城主田村家は、小田原に参陣しなかったため、1590年(天正18)秀吉の奥羽仕置で領地を没収された。当主宗顕は『牛縊』と改姓して、伊具郡(宮城県)に隠れ住んでいたといわれるが、愛姫の命によって、重綱が宗顕と嗣子・定廣を白石に迎え、侍屋敷を与えそこに住まわせた。
この時、田村父子は愛姫の父清顕の墓を蔵本愛宕山に建て、田村家一族の墓所と定めたという。そのあと定廣は片倉金兵衛と改名したが、妻に阿梅の妹阿菖蒲を迎えた。そして片倉初代景綱の異父姉少納言喜多の名跡を相続し、夫婦は没後、この地に葬られた。
阿菖蒲が造らせたものか、嫁ぎ先の田村家の墓所内には、真田幸村の供養墓が静かに建つている。
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