トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
実方悲話
2002年4月5日


 みちのくの風流の成立に果たした源融とともに忘れることのできない人が、藤原実方(生年未詳〜998)です。小倉百人一首の、「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを(後拾遺和歌集)」で知られる藤原実方は、次ぎに述べる事件によって、995年(長徳1)、左近衛中将から陸奥守に左遷されたといわれています。
 実方は、あるとき殿上人たちと連れ立って東山に桜を見に行ったところ、突然にわか雨が降ってきました。人びとの立ち騒ぐなか、実方は桜の木のもとに立ち寄って、「桜狩雨は降りきぬおなじくは濡るとも花の影に隠れむ(拾遺和歌集)」と詠んで、ただ陶然と桜の美しさに見とれ、梢から落ちてくる雨滴に装束もびしょ濡れになっていたというのです。のちにこの日のことを藤原斉信が一条天皇に詳細に称揚して報告しました。それを傍らで聞いていた藤原行成が、和歌は面白いがその振舞いがおこがましいと評しました。実方はそれを漏れ聞いて恨みを抱き、あるとき些細なことで行成と争い、手にしていた笏で行成の冠を打ち落としてしまいました。
 天皇は実方の無礼を咎め、歌枕を見て来なさいと実方を陸奥守に任じたというのです。みちのくに行って歌枕でも見たら、もっと風流を解するようになるだろうというわけで、この時代すでにみちのくへの旅は、風流を意味するまでになっていたのです。
 実方の奥州下りについては、自ら願っての赴任、または名誉ある拝任であったという説もありますが、新古今和歌集には、藤原隆家と実方の次のような応答歌が入っています。 

 ・別れ路はいつも嘆きの絶えせぬにいとど悲しき秋の夕暮 
                           隆家
 ・とゞまらんことは心にかなへどもいかにかせまし秋のさそふを
                           実方朝臣

奥州に下った実方は、天皇のいいつけを守って歌枕の各地を回って、次のような和歌を残しています。

 ・年を経てみ山隠れの郭公聞く人もなき音をのみぞ鳴く    
 ・やすらはで思ひ立ちにし東路にありけるものかはゞかりの関
 ・みちのくの安達の真弓君にこそ思ひためたることも語らめ    

いずれの和歌も、都から遠く離れた異郷の地にあって旅愁と哀愁をしみじみと感じさせますが、このような哀愁に応えた都の人びとの和歌も残されており、都には、彼の理解者や同情者も多かったものと考えられます。
 実方の最期については、平清盛の栄華を中心に源平二氏の興亡盛衰を叙述した軍記物語である「源平盛衰記」が、一節を割いています。それによるとみちのくに下った実方が、あるとき、名取(宮城県名取市)の笠島道祖神のまえにさしかかったところ、里人に「この神社の前は馬を降り参拝してから通るように」と言われたにもかかわらず、そのまま通り過ぎようとしたため神の怒りに触れて落馬し、それが元で死んだということです。

 ・みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき

と無念の一首を残して、客死したとも伝えられ、里人はこの死を悼んで墓を造り、さらにかたみの薄を植えて、実方中将を偲んだということです。
 風流人である実方がみちのくの土に化したことによって、みちのくの風流は長く後世に伝えられていくことになりました。実方は、身をもってみちのく歌枕探訪に殉じた先達ともいえ、実方の逸話によって象徴される歌枕憧憬の精神は、能因法師のみちのく行脚によってさらに増幅され、歌枕の国みちのくは広く都に喧伝されました。
 新古今和歌集から西行法師の味わい深い一説を紹介します。
   陸奥国へまかりける野中に、目にたつさまなる塚
   の侍けるを、問わせ侍りければ、これなん中将の
   塚と申すと答へければ、中将とはいづれの人ぞと
   問ひ侍ければ、実方朝臣の事となん申しけるに、
   冬の事にて、霜枯れの薄ほのぼの見えわたりて、
   おりふしものがなしうおぼえ侍りければ

 ・くちもせぬその名ばかりを留めおきて枯野の薄かたみとぞみる 
 
西行が訪れてから五百五十年後、松尾芭蕉は、実方の墓を訪ねようとして果たせず、「笠嶋はいづこ五月のぬかり道(奥の細道)」と呼びかけています。みちのくへ旅をして歌枕の各地を訪ね、実方中将の墓を詣でることは、歌人や俳人たちにとってはあたかも聖地を訪れるように、敬虔な巡礼の趣すらおびていました。実方が土と化したみちのくも一足遅い春を迎えました。生きとし生けるものが一斉に目覚め微笑みする季節です。