政宗が、仙台藩領として成立する地域に移ったのは、豊臣秀吉に臣従した翌年天正19年(1591)のことです。現在の宮城県、岩手県南部、福島県の一部でこの中には大崎・葛西氏の旧領も含まれていました。これに伴い拠点を米沢から岩出山に移しますが、岩出山城は要害堅固な城地ではありますが、家臣をすべて一箇所に居住させることを建前とする「近世城下」を設置するには狭隘で、位置は領内の北に偏り、また奥州街道から外れ、領内統治の面でも上方の交通の上でも不便な場所です。
関ヶ原の戦いの余塵まださめやらぬ慶長5年(1600)12月24日、国分氏の旧城千代城に入城した政宗は、普請始めの祝儀を行い、翌年から本格的な城づくりに着手しました。平行して城下町の建設も進められ、地名も仙台に改めました。
城と城下を結ぶ広瀬川にかかる大橋の擬宝珠の銘文、「仙人橋下、河水の流れが永劫に変わらず、民・国ともに安泰にして、まさに聖天子堯(中国古代の伝説上で、舜と並ならぶ理想的な聖王)の世にも比せらんこと」は、中国古代の帝都洛陽の繁栄になぞらえたもので、洛陽を模した都づくりを進めたいという政宗の気概を示したものです。
生産力の把握、荒蕪地の開発、家臣への新たな知行配分など藩の基礎固めを進めました。北上川等の河川の整備は、のちに50万石を超える増収をもたらし、本石米といわれる江戸廻米は、港町石巻を繁栄させる基礎となりました。国分寺薬師堂、大崎八幡宮、?竈神社、瑞巌寺、五大堂の修復・再建にも意を尽くし、建築に当たっては当時の文化の粋である桃山様式を取り入れました。慶長18年(1613)には、支倉常長をローマ、スペインに派遣するなど広く海外にも目を向けました。飛領として、近江国(滋賀県)蒲生郡5千石、常陸国信太郡・筑波郡(茨城県)1万石、近江領5千石が逐次与えられ62万石の石高が定まりました。家康亡き後は、秀忠、家光を補佐し、江戸幕府草創の時代に大きな歴史的な役割を果たしました。
2代忠宗は、寛永13年(1636)襲封、政宗の偉業を継承しました。産業振興にも意を用い、とくに新田開発を奨励、江戸への廻米は20万石(1人1年で食べる米の量がおよそ1石)に達しました。農馬の飼育をすすめ、馬市を開設、厩肥飼料による農業生産力の向上に努めました。明暦の大火(1657)時には、穀船80隻分の米を石巻などから江戸に届け、市民に振る舞うなど大藩に相応しい行動を示しました。
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