小倉百人一首の、「なげけとて月やはものを思はするかこち顔なる我涙かな(千載和歌集)」で知られる西行(1118〜90)は、俗名を佐藤義清といい、若かりし頃、北面の武士として鳥羽上皇の側近く仕えていましたが、高貴な女性に恋でもしたのでしょうか。23歳のとき突如上皇のもとを辞して出家をし、以来半世紀にわたる漂白の旅を続け、河内国(大阪府東部)の弘川寺で没しました。
みちのくには二度訪れますが、最初みちのくに来た26歳の頃は、能因の足跡を辿る風雅探訪と平泉二代藤原基衡に会うことが旅の目的でした。二度目に訪れたときは、1180年(治承4)平重衡による南都征討で消失した東大寺再建の、資金援助を三代秀衡に会って依頼するためのみちのくへの旅でした。
西行はこのような生涯を通して、多くのみちのくの和歌を残すことになります。西行の家集である山家集から跡を辿ってみたいと思います。白河関を越えた西行は、二つの和歌を詠んでいます。
・白河の関谷を月のもる影は人の心を留むるなりけり
・都出でて逢坂越えしをりまでは心かすめし白河の関
西行は、安積山、安達太良、会津嶺(磐梯山)を遠くみながら阿武隈川を越え、武隈の松(宮城県岩沼市)にさしかかります。
・枯れにける松なき跡の武隈はみきと言ひてもかひなかるべし
と詠んでいます。名取に入ってきます。
・名取河岸の紅葉のうつる影はおなじ錦を底にさへ敷く
・朽ちもせぬその名ばかりをとゞめ置きて枯野の薄形見にぞみる
そして宮城野(仙台市)では、
・萩が枝の露ためず吹く秋風に牡鹿なくなり宮城野の原
という和歌をとどめています。そして多賀城(多賀城市)は歌枕の宝庫です。
・踏まま憂き紅葉の錦散りしきて人も通はぬおもはくの橋
・陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷のいしぶみ外の浜風
陸奥国から出羽国を訪れたとき、山寺で詠んだ和歌に、
・たぐひなき思ひいではの桜かな薄紅の花のにほいは
最上川を歌枕に詠んだ和歌も見えます。
・最上川なべて引くらんいな舟のしばしがほどはいかりをさめて
・強く引く綱手と見せよ最上川そのいな舟のいかりをさめて
平泉(岩手県平泉町)では、
・聞きもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは
これは京の都の外に平泉文化を見出した驚きを爛漫と咲き誇る束稲山の桜の花にこと寄せて、詠んだ和歌ともいわれています。
・とりわきて心もしみて冴えぞわたる衣河見にきたる今日しも
これは、69歳のころ、再びみちのくを訪れたとき詠んだ歌です。秀衡は東大寺再建の資金援助を約束しますが、その翌年、義経のこと泰衡のことを案じながら波乱に満ちた生涯を終えています。それから二年後、平泉藤原氏は滅び、その翌年西行は、
・願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
という和歌を残して示寂しますが西行の生きた平安末期は、急速に武士が台頭し、保元・平治の乱を通じて平清盛が六波羅政権を樹立、その後源平の合戦を経て平家が滅び、平泉藤原氏も滅ぶ、そういう時代でした。どんな思いで西行は人の世の栄枯盛衰を見たことでしょうか。西行の訪れた平泉は、藤原氏の滅んだ後、時の流れを停止したように今も往時の面影を伝えています。
栞して山家集あり西行忌 高浜虚子
杖ついて畳を歩く西行忌 遠藤梧逸
花あれば西行の日と思ふべし 角川源義
さみだれや平泉村真の闇 山口青邨
麦秋の丘と重ねし柳御所 原田青児
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