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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
仙台藩物語3ー近代化への警鐘
2005年11月1日


 
  
 6代宗村は、寛保3年(1743)襲封しました。当時は藩内には華美の風がみなぎり、綱紀粛正をはかりますが思うように進まず、幕府から命じられた普請工事、火災や洪水の触発によって藩財政は再び逼迫、政宗以来、伊達家の御用を務めた蔵元大文字屋が破産するなど疲弊を改善することができませんでした。
 宗村のあとを継いだ7代重村は、宝暦6年(1756)襲封、この時代は天明の大飢饉をはじめ、凶作・飢饉や幕府からの大きな課役などによって、仙台藩は終始その対応に苦慮しました。宝暦10年(1760)学問所を北一番町(現県庁構内)に移し、養賢堂と名付け、施設・内容の拡充整備を図りました。
 シベリアに進出したロシアが、千島に南下してきたのはこの頃です。仙台藩の工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著し蝦夷地経営の急務と日露通商の増大策を提唱、林子平は『三国通覧図説』『海国兵談』で国防の必要性を指摘、近代化への警鐘を鳴らし続けました。