8代斉村は、寛政2年(1790)襲封しますが、寛政8年(1796)夫人が周宗を生んだあと急逝、前藩主重村 、藩主斉村と日をおかずして急逝しました。
9代周宗が1歳で襲封しますが、17歳で妻帯せず死去しました。
さらに、10斉宗が24歳で、11代斉義が30歳で、12代斉邦が25歳の若さで死去しました。幕末の激動期の大切な時期における藩主の若くしての急逝は仙台藩のその後を暗示させる出来事でした。
それに追い討ちをかけるように天保の飢饉をはじめとする天災地変、そして外圧も加えられてきました。周宗代の文化5年(1808)には、仙台藩は幕府の命を受け択捉・国後・箱館の警備を命じられ、藩兵1700人を派遣しました。
12代斉邦のときには天保の飢饉が起こり、さらに幕府から関東緒川の改修を命じられるなど多額の出費もしいられました。仙台藩の高野長英が『夢物語』を著し幕府の鎖国政策を厳しく批判、蛮社の獄に連座したのはこのころです。
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