明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は江戸城を無血開城しますが、朝廷は慶喜を援けた会津藩主松平容保に対して、仙台藩一手をもって攻撃せよとの命を下しました。 仙台藩は、朝廷に対し寛大な処置をとるよう建白、さらに奥羽20藩の家老の連署をもって会津の寛大な処置を奥羽鎮撫使総督府に提出しますが入れられず、総督府参謀世良修蔵の暗殺を契機に奥羽25藩の攻守同盟が成立、のちに越後6藩が参加し奥羽越列藩同盟が成立、戦闘が開始されました。 しかし仙台藩を盟主とする奥羽越諸藩は各地で敗退、仙台藩は9月降伏謝罪しました。慶邦と世子宗敦は謹慎、62万石は没収されますが、のち特別の思し召しをもって家名の存続が許され、28万石が下賜され、慶邦の子で当時2歳の亀三郎(宗基)が相続しますが、版籍奉還、廃藩置県を経て明治4年(1871)仙台藩は解体されました。 のち華族令の施行に伴い宗基は伯爵、宗敦は男爵に叙せられました。明治初期仙台藩士とその家族が続々と新天地に移住、北海道開拓のパイオニアとなり、仙台藩の最後を飾るに相応しい有終の美を添えました.
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