仙台藩には、緊密な三藩が存在しました。政宗の長子秀宗を祖とする伊予国(愛媛県)宇和島藩とその支藩である吉田藩、そして政宗の孫宗良によって再興された田村氏二代建顕を祖とする一関藩です。田村氏以前の一関藩主であった伊達兵部宗勝は寛文事件の責任を問われ改易、一代で終焉しています。南北に分かれた藩ではありましたが、姻戚関係で結ばれ支えあった親密な歴史も積み重ねてきました。
秀吉の猶子(相続を目的とせず、仮に結ぶ親子関係)であった長子秀宗は、秀吉の死後も人質として大坂にいましたが、関が原の戦のあと家康の命で江戸に出府、慶長19年(1614)大坂冬の陣に政宗とともに出陣、このとき将軍秀忠から政宗の勲功と秀宗の忠義が認められ、伊予国宇和島10万石を賜り翌年入国し、9代260年の歴史を刻む宇和島藩の祖となりました。秀宗は5男宗純に吉田藩3万石を分地、7万石となりました。秀宗の時代、総奉行山家清兵衛公頼が秀宗の密命を帯びた刺客に暗殺される事件が発生、2代宗利は清兵衛の怨霊を鎮めるため山頼和霊神社を建立しました。
宗利は、仙台3代綱宗の3男宗贇を養子に迎え娘を配しました。宗贇は10万石高値を幕府に許され、表高を回復するなど家格の維持に努めました。4代村年のとき享保の大飢饉で大きな被害を受け、藩政改革の方針を出しますが享保20年(1735)参勤交代の帰路、播磨国(兵庫県)加古川で没しました。五代村候は、倹約令と25箇条の定めを出して家臣団の綱紀を粛正し藩校内徳館を設け、また殖産興業に努めました。天明の飢饉で極度の財政難に見舞われますが、7代宗紀は強力に藩政改革を実施、財政再建に成功しました。
8代宗城は、ペリー来航後の幕末の激動期、諸改革を実施、富国強兵策を推進しました。脱獄中の高野長英をかくまい、五岳堂を開いて青年達に蘭学を伝授させ、大村益次郎を招いて軍事研究に専念させました。将軍継嗣問題、日米修好通商条約締結問題では一橋派、攘夷論者として動き、安政の大獄に際して隠居を余儀なくされました。その後も公武合体派の有力大名として活躍しました。
明治になり外国知官事、民部卿兼大蔵卿に任命され国内体制の整備に尽力、明治4年(1871)全権として天津において、日清修好条約締結に大きな役割を果たしました。世嗣宗徳は、宗城の勲功によって侯爵に叙せられました。
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