秀宗の5男宗純は、宇和郡吉田に3万石の分地を受け9代210年の歴史を刻む吉田藩の祖となりました。藩政初期から家臣団内部の勢力争い、宇和島藩との境界論争など不安定な要素を抱えていました。
5代村賢のとき、連年の洪水による莫大な損害を豪農商に課した献金と紙や蝋の専売制の強化によって克服しようとしました。藩に融資をしていた豪商法華津屋が次第に藩政に介入、莫大な利益を独り占めにしたため、豪農商と結託した藩吏に対する怨嗟の声が蔓延、寛政5年(1793)武左衛門を指導者とする紙専売制に反対する百姓一揆が起こりました。吉田藩家老安藤継明は一揆勢の前で割腹、藩は農民の要求を全面的に容認して解決しました。
6代村芳は藩校時観堂を設立、学問所と武芸訓練所を併設して士分以上の子弟を教育、綱紀粛正に努めました。7代宗翰は文政5年(1822)倹約令を出し、領内の富裕者に借上金を命じるなど藩財政の充実に努力しました。8代宗孝は、江戸在府にこだわり藩政を等閑、維新期には新政府への出仕が遅れ、宇和島藩の取りなしによって新政府に陳謝して隠居、宗敬がその跡を継承しました。
明治になり外国知官事、民部卿兼大蔵卿に任命され国内体制の整備に尽力、明治4年(1871)全権として天津において、日清修好条約締結に大きな役割を果たしました。世嗣宗徳は、宗城の勲功によって侯爵に叙せられました。
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