田村氏の祖となる宗良は仙台2代藩主忠宗の3男で、政宗夫人陽徳院(愛姫)の遺言による忠宗の命で田村氏を再興しました。
仙台3代藩主綱宗が不行跡の罪で隠居を命じられたとき、幕命によって四代藩主となる亀千代の後見役となり、伊達兵部宗勝と共に3万石の分地を受け、岩沼地方を領しました。しかし寛文事件の責任を問われ閉門、のち許されました。
2代建顕のとき一関へ移封され、建顕は一関藩の祖となりました。建顕の時代、将軍権威確立を目指す5代将軍綱吉の譜代大名抑圧、外様小藩主および支藩主の幕吏登用政策によって譜代衆の列に加わり、奧詰・奏者番の要職につき、役儀によって城主格になり、美作国津山城受取りの上使や播州赤穂城主浅野長矩預り(田村邸で切腹)などを命じられています。3代村顕を宇和島から迎えるとともに、仙台11代藩主を輩出しています。
一関藩は終始財政難にあえぎましたが、初代藩主以来好学の藩主が相次ぎ、百姓町人出身の学者・医者を学頭・師範・藩医などに登用、大槻玄沢、建部清庵等を輩出するなど特色ある文化が形成され幕末、維新を迎えました。
明治になり外国知官事、民部卿兼大蔵卿に任命され国内体制の整備に尽力、明治4年(1871)全権として天津において、日清修好条約締結に大きな役割を果たしました。世嗣宗徳は、宗城の勲功によって侯爵に叙せられました。
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