元禄二年(一六八九)松尾芭蕉が『奥の細道』の旅をしてから、その足跡をたどって東北を行脚する俳人が多くなりました。天野桃隣(とうりん)もその一人です。 桃隣は伊賀上野の人で芭蕉の甥とも従弟とも伝えられますが、芭蕉が他の門人に対するよりもよりうちとけた記述の書簡が残されていることから血縁関係があった人であると推測されています。芭蕉が大坂で没した時、桃隣は深川の芭蕉庵を預かっていましたが、義仲寺に転じ、追善供養を営むだけで満足せず、三回忌にあたる元禄九年三月『奥の細道』の足跡をたどり『陸奥鵆(むつちどり)』を著しました。
『陸奥鵆』は、桃隣が『奥の細道』の跡をたどった紀行(巻五)を中心にし、巻一は江戸俳人を主とした連句・芭蕉の四季発句百句・諸家の春の発句を、巻二は 桃隣旅行中の連句や諸家の夏の発句・芭蕉はじめ江戸俳人の画像等を、巻三は同じく桃隣らの連句・諸家の秋発句等を、巻四は芭蕉三回忌追善連句その他及び諸家の冬発句を収録しています。
『奥の細道』紀行に思いを馳せた桃隣は、
何国(いづく)まで華に呼出す昼狐 桃隣
と一句をとどめ江戸を旅立ちました。
宇都宮から日光、中禅寺湖、黒髪山、今市、那須、白河を経て岩城の小名浜へ向かいました。小名浜へ想い出を刻んだ桃隣は白水阿弥陀堂を経て二本松へ向かい、鬼婆伝説で有名な黒塚を見て宮城へ入りました。
斎川(白石市)では佐藤継信・忠信兄弟の妻達が鎧姿になって年老いた義母を慰めたと言い伝えられている妻達の甲冑姿の像を納めた甲冑堂がありました。
軍(いくさ)めく二人の嫁や花あやめ 桃隣
白石から岩沼に入り竹駒神社を参拝、二木の松や実方中将に思いを馳せながら仙台に入りました。
もとあらの若葉や花の一位(ひとくらゐ) 桃隣
仙台から今市村へ向かいますが、冠川(かむりがわ)土橋を渡り、東光寺の脇を三丁ほど行くと岩切新田という村があり、百姓家の裏に、十苻の菅(すげ)がありました。近くの道端の脇にもありましたが、どちらも垣を結いめぐらし、この百姓が菅を守っていました。
刈比(かりごろ)に刈られぬ菅や一構(ひとかまへ)
ここから再び本道へ戻り、土橋を一丁ほど行くと、左の方に小橋が三つ有りました。中を諸絶(おだえ)ノ橋と云います。この辺の人は轟(とどろき)の橋といっています。ここから市川村入口で、板橋を渡り右の方へ三丁程行くと、壺の碑がありました。神亀より元禄まで千年の歳月が経過をしています。右大将頼朝の古歌が思い出されました。
みちのくのいはでしのぶはえぞしらぬ
かきつきしてよつぼのいしぶみ
ここから八幡村へは一里余りです。細い道を分け入ると八幡村の百姓の家の沖の石がありました。三間四方の岩で周りは池で囲まれていました。ここから末の松山に登りますが、海原が身近に見えます。千引の石はこの辺にあるはずですが、この辺の人たちは知らないようです。一里行くと松が浦嶋がありました。これより塩竃への道筋に浮島・野田の玉川・紅葉の橋、いづれも道続きに見られました。奥州一の宮塩竃神社はさすがで、輝くばかりの荘厳な建物です。
神前に鉄燈籠がありましたが、形は林塔のようです。扉には文治三年和泉三郎寄進と記されています。右の本社は、守護より造営の命があり、工事は半ばです。
祢宜(ねぎ)呼にゆけば日の入る夏神楽
麓は町家が連なり、町の中には塩蒲が四つ有りました。三つはさし渡し四尺八寸、高さ八寸、厚さ二寸五分です。昔は六つ有ったそうですが誰かが盗み出し、海中へ落としたると伝えられています。この側に牛神といわれる牛に似た石が有りました。明神の塩を運んでいた牛が化けてこのような姿になったとということです。今は塩を焼いてはいません。
月涼し千賀の出汐はわれの物
塩竃宿の門前から小舟にて松島へ渡りました。
小舟に乗った桃隣は、舟子に酒を与え静かに舟を進ませながら、島々について語らせました。まずは古来歌枕として著名な籬島(まがきじま)、高く見えるのは大沢山住鵬雲和尚隠居所、経が島は見仏上人独誦(どくじゅ)の閑居、ふくら島は田畑が有って弁慶守本尊不動が有り、五大堂は五智の如来があり、松島町からは橋二つを超えねばなりませんなどの話に往事を追懐しました。
伊達家菩提寺瑞巌寺、政宗夫人墓所陽徳院、長女五郎八(いろは)姫の墓所天麟院を参拝したあと富山に登りました。富山大仰寺には高泉和尚の額が掲げられていました。ここからは松島が一望できその美しさは言葉では言い尽くせません。国主もたびたび来ているそうですが、旅人にはぜひこの眺めを見てもらいたいものだという思いが脳裏をかすめました。
麦喰て嶋々見つゝ富の山 桃隣
石巻に向かった桃隣はその繁栄ぶりを見聞、海上に燦然と輝く金華山に心を躍らせ、平泉へ向かいました。
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