トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
史都に刻んだ高山彦九郎の想い出
2006年12月6日


 
  
 『北行日記』は、ロシアの侵入の警報の噂に憂国の情に駆られた上野国(群馬県)生まれの高山彦九郎(正之一七四七〜九三)の北遊の旅日記です。寛政二年(一七九〇)六月江戸を発ち、常陸の水戸から磐城に出て、出羽から津軽半島の宇鉄、青森、盛岡、平泉を経て仙台に到りました。仙台では林子平(一七三八〜九三)と深夜まで語り合いました。
 二十七歳から四十七歳までの間、夜を徹してあるいは路傍に腰掛けてまで詳細な日記を書き続けました。海外事情に注目しつつ『三国通覧図説』『海国兵談』などを著し、世人を覚醒させようとして幕府の忌諱(きき)にふれ蟄居(ちっきょ)した林子平、歴代天皇陵を調査して『山陵志』を著し、ロシアが北辺を侵すと聞いて『不恤緯(ふじゅつい)』を著して沿海防衛の必要性を説いた蒲生君平(一七六八〜一八一三)とともに、「寛政の三奇人」の一人といわれています。彦九郎は、勤王、海防の必要性を説き諸国を遊歴しますが、時勢を憂慮して自刃して果てました。
 江戸を発った彦九郎は、安房館山、銚子、水戸、福島、米沢、山形、湯殿山、大館、弘前、青森、津軽三厩(みんまや)に到りました。蝦夷地へ渡ろうとしましたが渡れず引き返し、八戸、花輪、盛岡から仙台へ向かいました。道すがら往事に思いを馳せながら、古川の緒絶(おだえ)の橋に到りました。   白玉のおたへの橋と聞くからに
     ふまゝくおしく立そわつらふ 正之
 途中天明の飢饉で大きな打撃を受けた村などを見ながら十月二十一日仙台に到着、元茶畠芝田町の林子平の兄宅を訪ねました。子平は外出していましたが、子平の兄のはからいで、この夜は林家で過ごすことになりました。夜に入り入浴して久方ぶりに体を布団に横たえ心地よい睡りにつきました。
     翌日子平が外出先から帰宅したので、彦九郎は子平に津軽石と琥珀の土産を渡しました。二十七日まで仙台の名所旧跡を訪ね、また子平と酒を酌み交わし深夜遅くまで時事を論じるなど、憂国の思いを抱く同志と熱い議論を交わしました。
 二十八日、早朝榴ヶ岡を出発、比丘尼坂を過ぎ、岩切の館跡を見ました。その後、今市を経て冠川の仮橋を渡り岩切村に到りました。南宮村を経て市川入口では、壺碑に立ち寄りました。この辺では多賀城の瓦がよく出る話を聞きました。浮島の人家のうしろから大きな道に出ました。仙台城下からの道は松並木で道がよく整備されています。坂を下りると塩竈の町です。
 塩竈神社には袴を着して参詣しました。石鳥居を入って石段を一丁ほど登ると随身門楼門です。左には文治三年七月十日和泉三郎忠衡寄進の鉄の燈籠があり、随身門の右には絵馬殿鐘堂がありました。玉垣門を入ると東と西に二つの宮があり、東は鹿島の神が西は香取の神が祀られています。別宮は塩土翁の社(やしろ)です。塩竈神社では宮司藤塚式部知明を訪ねました。藤塚のところに江戸から小嶋西之助も訪れておりこの夜はここを宿としました。酒肴を楽しみながら知明らと夜の更けるまで語り合いました。
 二十九日はあいにく曇りでした。知明が和歌を詠み、小嶋は詩を詠むなどこの日も酒を飲みながら語り合いました。しばしの時を過ごした後、町へ出ると昔塩を煮たという大きな釜が四つ並んでいます。往事に思いを馳せここで小嶋らに別れ、八丁ばかり南へ行くと右に野田の玉川、さらに南へ進むと右に紅葉山、左におもはくの橋を経て末の松山です。末松山と号する寺があり、今は墓地となっています。沖の石も右にありますが以前は「沖の井」と呼んでいたそうですが、今は「沖の石」というようになったそうです。人家を出て田地に入ると、左に八幡の森が有り、玉川からここまでは八わた村の内です。
 塩竈より南小道五里のところです。暮れてきたのでこの夜は八はた村に宿を求めました。仙台藩士天堂内膳千五百石の采地で、宿を提供してくれたのは内膳の家臣伊藤清之助という人です。ここに長谷川権太夫という武士が訪れ酒を酌み交わしながら語らい合いました。清之助は大変和歌を好み、この辺の名所を詠んでいるそうで、餅もふるまわれるなど大歓迎を受けたのであります。
 十一月一日。この日は大雪で清之助と早朝出発、中野村で別れました。別れ際、記念に琥珀と津軽石を贈りました。福田町冠川の橋を渡り、苦竹村を経て、榴ヶ岡の天神を参拝したあと、子平の所へ戻りました。食事をしている時懐中を探ると、小嶋西之助から託された「籬が島」の松及び詩を忘れてきたのに気づき、旅装を整え塩竈へ向かいました。藤塚知明から小嶋の詩を受け取り 懐中に納め、その夜は知明と深夜まで語り明かしました。
 翌早朝旅立とうとしましたがあいにくくの雪で、酒を酌み交わしながら贈答歌を交わしました。
  隔つとも籬島(まがきのしま)と言の葉に
          にほいよ添よ梅の花貝 知明
  隔たりし籬が嶋の言の葉も
      先咲く梅の千賀の塩竈      正之
 仙台へ戻った彦九郎は子平と時事を論じ、憂国の思いを胸に仙台を出立、京の都への道を急いだのです。