私の歴史や文化に対する考え方
さて二週間ほど前、芳賀さんが本日のお披露目の案内状をもって私の家に来られ、そのおり「登米市の歴史や文化、故郷への思い、発展可能性など、いつも話していることをこの機会にぜひ話をするようにといわれました。固辞はしたのですが、私も県の総合計画班長として宮城県の総合計画策定を総括、10年前には迫地方県事務所長として、その後は政策調整監として県政の立場から登米地域の歴史や文化、埋もれている資源に熟知している一人であると自認していますので、せっかくの機会ですから私の歴史や文化についての考え方や、この地域はいかにあるべきかなどについてお話しをしてみたいと思います。
いまから55年ほど前、昭和25年3月、平泉藤原三代の遺体の学術調査が行われました。三代の遺体を納めた棺は寒さのまだ残る金色堂須弥壇から運び出され、250メートル離れた中尊寺本堂に安置され、厳かな遷座法要と学術施行式が行われた後、棺のふたが次々と開かれていきました。
三代秀衡の遺体に初めて対面した作家の大仏次郎は、その時の感動を次のように記しています。
「私は、義経の保護者だった人の顔を見守っていた。想像を駆使して、在りし日の姿を見ようと努めていたのである。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立と称してはゞからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした人の顔が、これであった。」
さらに棺の底から金でできた豆粒ほどの小さな鈴が出てまいりました。それを棺の中から拾い上げ、静かに振って鈴音を聞いた時の感動を中尊寺執事長は次のように記しています。
「黄金というには余りに可憐な金の小鈴、思わず呼吸をつめた私は、目を閉じ心意を一点に凝らして、静かに静かに振ってみた。小さく、貴く、得も言われぬ神秘の妙音。八百年後の最初の音を聴き得た身の果報。それはまさしく大いなるものの愛情による天来の福音であった。連日続くあの騒擾に、恐らくすでに爆発寸前の感情にあったろう私は、文化を護る道は、ただ愛情≠フ二字に尽きることを、この瞬間に強く悟り得たのであった。」
私もまさに歴史や文化を正しく継承しこれを次代にしっかりと引き継いでいくのは、なににもまして歴史や文化に対す尊敬と愛情があってはじめて可能なのではないのかと考えています。そんな視点から登米を見るとなんと素晴らしい歴史や文化を大切に継承してきたことでしょう。
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