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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
有備館の伊達家
2007年5月20日


 
  
 私の家の最も親しいお付き合いをしている親戚は、岩出山の伊達家と北海道伊達市の伊達家です。岩出山の伊達家の住まいは昭和四十年代まで国史跡にも指定されている有備館でした。父に連れられときどきうかがいましたが、幼心にも誇らしくまた私の人間形成に大きな影響を受けた家でもあります。
 当時、岩出山の町長をやられた伯父が健在でその娘夫妻とその子供である従兄や綺麗な従妹たちが生活していました。広大な庭と池に囲まれながら質素な生活を旨にされていたように思います。先祖に対する尊敬の念が強く、戦後の混乱期も含めて冠婚葬祭や古いしきたり行事を大切に継承されていました。親戚、旧家臣の人たちとの関係を大切にされている日常生活を見るにつけ、それを守り続けている大変さも子供心にはうすうすと感じたものです。とくに娘夫妻には私は大変温かく励まされ慈しみを受けました。娘の和子様からは伊達家の歴史や文化について、先祖の廟所を大切に護られている心意気を学びました。どんな時でも私を励まし引き立ててくれました。そんななかで私の気持ちの中のなかにも先祖を心から敬う心が強く芽生えたと思います。夫君の慶嘉様は何時も毅然としておられましたが、高い見識と温厚な人徳を備えておられ、やはりなにかと私を引き立ててくれました。
 先祖のご供養をきちんとやられている家でもあります。明治以降比較的古いものを切り捨てながら合理的な生活を旨としてきた家に育った私には学ぶことも多かったと思います。供養の時などは北海道の伊達市からも親戚が駆けつけ、いまもそれが引き継がれています。昭和二十年代から四十年代にかけて戦後の激動の時代伊達家親戚のサロンのような役割を果たしていました。私はこれをとおして多くの親戚たちと知り合うことができました。そんなこともあって岩出山から北海道石狩当別に開拓に入った親戚や有珠(伊達市)に開拓に入った親戚とも親しくなり、大学の卒論は「仙台藩士の北海道開拓史」をテーマとしました。
 御廟は整然と掃き清められ、従兄や従妹の墓参の姿からも心から先祖を敬っている気持ちがひしひしと伝わってきたものです。当時、周辺の樹木が切り倒され荒れほうだいになってしまった広大な廟所に心痛めていた父の姿を見てきた私の、社会人になって最初に行ったのが廟所の整備でした。その時植えた桂やツゲはみな大木になってしまいました。私もそれだけ年を重ねたということでしょう。私を墓所整備に駆り立てたものは和子様夫妻の大きな影響を受けたからです。有備館での想い出は尽きませんが夫君に続き平成十九年三月、和子様が逝去されました。病室を見舞ったとき楚々とした孫娘が看護していました。血筋というものは不思議なものです。自分の娘のような錯覚にみまわれながら、病床の和子様の手をしばらくの間握りしめていました。言葉は交わせませんでしたが、手の温もりや私をじーと見つめていたときの瞳から、和子様が何時も私にいわれていた「登米様は一番大切な親戚です。これからも長い間よろしくお願いします」と語りかけたのを充分承知していました。孫娘は「おばあちゃん、よかったね」と語りかけてくれました。言葉が通じなくても和子様と私には心の通い合う温かいものを感じました。しばしの静寂の一時を過ごし万感の思いをこめ病室をあとにしました。見送ってくれた孫娘には「あなたも健康には充分気をつけるのですよ」といい病院を後にしました。帰路在りし日の想い出が走馬燈のように脳裏に去来しました。和子様を一人にはしないようにみなで交代で看護されている従兄、従妹やその子供たちにとっても人間形成の上に大きな影響を与えた人だと考えています。先祖を敬う岩出山伊達家の家風や高邁は志は従兄宗尚様や従妹温子様、順子様や光子様や妹たちそして孫たちにしっかりと引き継がれて行くことでしょう。
 それからしばらくして和子様は逝去されました。言葉に尽くせぬほどお世話になった和子様に万感の思いを込めてお別れをしました。誰もいなければ思い切って泪をながしたい気持ちをこらえお別れをしました。これからもこの岩出山のお家とは大切に誠実に末永くお付き合いしていくことが、生前お世話になった和子様夫妻に対する私の報恩の証であると考えている昨今であります。