『都のつと』は、観応(1350)の頃、筑紫(九州)を出て諸国を放浪した、宗久の紀行文です。修行のため東国への旅を思い立ち、東海道を下りました。旅の道すがら歌枕を訪ねて鎌倉まで辿り着きましたが、ここで旧知の人の他界を知り、常陸(茨城県)、甲斐(山梨県)などを遍歴して秩父(埼玉県西部)で年を越しました。そして春、上野(群馬県)へ越える途中、風流人のもとに引き留められましたが再開を約して辞し、8月に寄ってみるとその人の初七日にあたっており、無常迅速を驚き、追悼の歌を残して去りました。その後、白河関を越えて陸奥国に入り、歌枕を訪ねて塩竈、松島を巡り、またその時々、各地で様々な見聞を重ねながらの旅でした。その後、帰途につき武蔵国(埼玉県・東京近辺)で道連れを得て、末の松山や塩竃の土産を贈って歌を贈答し、帰京の途に就くに当たり、道中の名所の印象を、忘れぬうちに記しておき、これを「都のつと(土産)」にするのだというところで、筆をおいています。
宗久は早朝都を出、近江国(滋賀県)で一首をとどめました。
立寄りて見つと語るな鏡山名を世に留めん影も憂ければ
東路の名所不破の関などを経て、佐夜の中山に入りました。
こゝはまたいづくと問へば天彦の答ふる声も佐夜の中山
駿河国(静岡県中央部)宇津の山を越えました。蔦はまだ若葉で苦にはなりませんでしたが、紅葉の秋の頃を考えると大変です。
紅葉せば夢とならん宇津の山うつゝに見つる蔦の青葉も
清見が関(静岡県清水市)を経て、富士山を望みました。
富土の嶺の煙の末は絶えにしを降りける雪や消えせざるらん
芦ノ湖、箱根を経て鎌倉で知人を訪ねましたが、すでに亡く宗久は人の世の果敢なさ、空しさに、心をいためました。
見し人の苔の下なる跡問へば空行く月もなを霞むなり
常陸国高岡に、高僧を訪ね、そこで一夜を過ごしました。 その後、上野国で由緒ありげな家に一宿の恩を受け、自分が遁世するに至った事情や、宿の主からは遁世を赦さない家族のしがらみなどの話を交わし、主人からは「暫くここに留まって、旅の疲れをいやすように」と勧められるのを振り切って、「秋の頃には必ず立ち寄るから」と約束して旅を続け、秋になってその人のことが気になって立ち寄ってみると、初七日の法事を行うところで、もっと早く立ち寄っていたらと悔やまれ、様々なことが脳裏に去来しました。在りし日の思い出を宿の壁に書き残し出立しました。
袖濡らす歎きのもとを来て訪へば過ぎにし春の梅の下風
白河関では、先人のことを偲びました。
都にも今や吹らむ秋風の身にしみわたる白河関
出羽国では阿古屋の松を見、陸奥国では浅香の沼、阿武隈川を訪ね、武隈の松の陰に旅寝して木の間越しに月を眺めながら思いを巡らしました。名取川を渡って宮城野に入り、その風情に感動、ほかと異なった色をした萩を一枝折り、人の住んでいた往時を忍び歌一首を詠みました。
宮城野の萩の名に立つ本荒の里はいつより荒れ始めけん
国府多賀城に到着、末の松山を訪ね、松原越しにはるばる見渡すと、本当に波が越すように見え、釣舟も梢を渡っているようです。
夕目さす末の松山霧晴れて秋風通ふ波の上かな
塩竃では、藻を焼く煙にうら寂しい気持ちになりました。
有明の月とともにや塩竃の浦漕ぐ舟も遠ざかるらん
僧衆百人住すといわれる松島円福寺、五大堂を眺め雄島を訪ねました。来迎の三尊が安置され、南の方には遺骨を納める場所があり,仏教に帰依した人々の元結なども多く見られ、心も厳粛にまた澄みわたり2〜3日留まりました。
誰となき別れの数を松島や雄島の磯の涙にぞ見る
もう引き返そうともときた道を辿り武蔵国、歌道の心得のある人に出会い、末の松山や塩竃で拾った松笠や貝殻を記念に贈り、親しい間だからこそできる歌を交わしました。
ともなわで一人行きけん塩竃の浦の塩貝見る甲斐なし
返し
塩竃の浦みも果ては君がためひろう塩貝甲斐やなからん
心向くままさまよい歩くうちに、さすがに故里が懐かしくなり、宿の壁に向かって残り灯をたよりに、万感の思いを込めて「都のつと(土産)」に旅のあらましを綴りました。宗久の訪れた東北の山河は、森羅万象躍動する季節を迎えています。
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