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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
五城寮舎監大野先生の想い出
2007年7月12日


 

大野董先生の想い出

 (私は大学時代、財団法人仙台育英会五城寮に4年間お世話になった。東京の大学へ入るよりも難しいといわれた寮である。最後の松下村塾ともいわれ当時毎年のように全国紙で紹介をされた寮である。私を除きたくさんの俊秀を輩出した。戦後の舎監は山梨勝之進元海軍大将。今上陛下が学習院に入学されるとき特に昭和天皇から指名された人格高潔の先生で、戦後とはいえご夫妻は寮生と起居を共にされた。その後を引き継がれたのが大野董元海軍少将である。私は大野先生の時代、その次の加瀬谷陸男元陸軍大佐の時代にご夫妻には4年間お世話になったが、山梨先生にも大野先生にも加瀬谷先生にも言葉には尽くせぬお世話になった。山梨先生も大野先生も仙台に来られた都度、県庁を訪問され、知事などに「伊達君をよろしく」とお話しをされてくだされた。ご期待には添えかねたがいたらぬ私のことを常にお心にかけていただいたものと素直に感謝している。先生方の慈しみと薫陶のなかで今日の私が育てられたと感謝している。)

1 多感な少年時代を経て敬虔なクリスチャンへ
 大野董先生は、明治21年12月20日志田郡郡古川町大柿(現大崎市)で大野勘四郎、みをちの次男として誕生された。勘四郎は事業欲も旺盛で代言人(いまの弁護士)を業とし周囲の人望を集めていたが、それが災いし後には家産を傾けた。
 長兄薫は名護屋高等工業を卒業、土木技師として長崎県に奉職中、明治43年10月病没、三男の邦衛も生まれてまもなく病没したため、先生が実質的な家督の立場になられた。 董先生は地元の小学校、中学校で学ばれた。中学時代、大正デモクラシーの理論的な支柱になった民本主義を唱えた吉野作造がつくったクリスチャンのサークル活動に参加、のち洗礼を受けている。

2 結婚から敗戦へ
 明治41年海軍機関学校に入校、海軍軍人としての一歩を歩み始めた。大正元年海軍少尉、大正3年12月中尉に進んだ。この大正7年は先生にとっては最悪の年であった。鞍馬第一予備艦勤務の時代であったが4月「肥厚性鼻炎」に罹り、3週間仙台市宮城病院へ転地療養された。そのあと練習艦朝日の勤務となられたが7月、パラチフスに罹患され5週間の病気休暇をとられた。7月29日全治、満州乗組を拝命第一予備艦勤務となられるが、この時期が苦しい時代の一つではなかったろうか。
 翌大正4年7月14日結婚願が許可され、遠山とみ女と結婚された。当時大野先生は満州第一予備艦隊勤務であったため、とみ夫人は古川で義父・義母との生活を余儀なくされ、先生とは長い別居居生活であった。
 先生は大正5年から7年にかけて父君の看病のため何度か許可を取り古川に帰省された、大正7年7月父君が逝去された。大野先生は家督として父君の残された負債の整理に追われた。父君が逝去されたあと夫人とともにご母堂を横須賀に迎えらたが、ご母堂は大正10月逝去された。この間長男、長女があいついで誕生した。先生は夫人との間に二男四女をもうけられた。
 大正12年海軍機関少佐、昭和14年海軍少将へとすすんだ。昭和に入ると国も国民も戦争への狂気の時代へ突入していくが、先生は一部の人たちから改宗を迫られたり暴力を振るわれたこともあった。しかし先生は節を曲げず教会通いを続けた。
 昭和10年6月呉鎮守府の勤務となるが、キリスト教の協会活動には非常に熱心で、呉時代は協会役員も率先して務められ、家庭集会にも夫人を伴って参加、夫人も熱心な信者となりのち洗礼を受けた。
 先生は一貫して海軍技術畑を歩んだ。日本は昭和16年12月8日真珠湾攻撃に始まる戦争の泥沼の中に突入していくが、先生はその真っ直中の昭和17年1月予備役に編入された。
 戦時下の大きな課題は石油の確保である。先生は昭和17年2月から帝国石油(株)海軍代表理事(勅任待遇)、昭和19年石油さく井機製作(株)社長を兼務された。そして敗戦した昭和20年11月公職追放され2社の役員の地位を追われた。

3 戦後の困難のなかで
 敗戦の翌昭和21年1月、先生は岩下精鋼(株)顧問に就任、昭和23年4月には敬隣会役員、昭和25年4月(株)畠山鉄工所常任監査役に就任された。そして昭和33年8月五城寮舎監に就任され、昭和40年12月退任されるまで7年余り寮の発展に尽力された。
   この間昭和38年には(株)敬隣社社長に就任された。敬隣社は清掃を業とした会社であるが、根底には人のいやがることを率先してやる社会奉仕を理念にしていた会社で、少ない事業収益の中で板橋区内の母子家庭の子供たちへ育英資金を支給するなど人材育成に心血を注いだ会社である。先生のクリスチャンとしての敬虔な姿勢を体現したともいえる会社で、行き詰まっている人々を陰からそっと支えていた。

4 先生を支えたとみ夫人
 とみ夫人は明治30年遠田郡の医家の5女として誕生した。しかしまもなく父君を亡くし、年の離れている3兄のもとへご母堂と2人で身を寄せられた。3兄も一家をかまえていたが、父君逝去後の母子の生活は苦しかったものと推測される。そうした中で多感な少女時代を過ごした。
 お世話する人があり先生と大正4年結婚した。当時は海軍の幹部候補は結婚の許可を受けねばならず、許可願いを海軍省に提出許可された。  当時、先生は満州第一予備艦勤務のため、夫人は先生との新婚生活をすることなく古川で義父母との生活をされた。
 大正7年1月義父が逝去され、とみ夫人は義母とともに横須賀に移住され、はじめて先生との生活に入った。大正10年義母が逝去されるが、その間長男・長女が相次いで誕生した。先生は大正13年11月佐世保鎮守府機関長になるが、この頃将校クラブである水交社でピアノに興じたり、休日にはスケッチブックを抱えて家族と出かけたり、家では小鳥を飼ったりおもとに凝ったりされた。しかし釣りやテニス、玉突きなどには関心を示さなかった。酒や煙草もたしなまなかった。
 先生は外で活躍したが、家庭内のことは夫人に一切を委ねていた。先生が自分の思い通りの道を歩むことが出来たのはまさに内助の功があってのことである。早く父君を亡くされ経済的には必ずしも豊かではない環境の中でしっかりと育たれたとみ夫人の忍従の時代に培われた強靱な精神は、先生を影からしっかりと支える大きな原動力となったのである。

5 次代を拓く
 敗戦は多くの国民に大きな打撃を与えた。しかしいち早くそれから立ち直り果敢に新しい時代を切り開こうとした人たちもいた。先生は数少ないそうした人の一人である。一貫して技術の道を歩んだことは、多くの人脈にも恵まれた。戦後いち早く新しい時代に適応できたのはそんな背景もあってのことであろう。
 寮でお世話になった当時の大野先生夫妻のお姿の背景には、このような激動の時代をしっかりと歩まれた半世紀にわたる辛苦の歴史の重みがあったからだろう。
 いつか時間が出来たなら冷たいお酒でも持って、先生の墓前で心ゆくまで先生ご夫妻とお酒を汲み交わしたいと思っている。