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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「私の心の原風景ーパート1 」
2007年7月23日


 

私の心の原風景
(これは平成14年10月からNHK泉文化センターで24回シリーズで行った「みちのくの文学風土」の第1回に講話した内容です。)

  秋風は遠く草葉をわたるなり夕日の影はのべはるかにて
     『千載和歌集』にある伏見院の和歌であります。秋もだいぶ深まってきました。山の木々も厳しい冬に備え、装いを改めつつあります。今日から、この講座を担当することになった伊達でございます。どうぞよろしくお願いします。
 さて、これから1年間の長いおつきあいですので、今日は(1)私の心の原風景(2)ものの見方考える上において影響を受けた先生の考え方(3)私の歴史や文化に対する考え方(4)そしていま何が一番大切なのかについて、私の考えていることについてお話をさせていただきたいと思います。
   まず私の生い立ちであります。私は昭和20年県北の登米町で生まれました。登米町は石川啄木が、
  やわらかに柳あおめる北上の岸辺目にみゆ泣けとごとくに
と詠った北上川の中流に位置する藩政時代の城下町で、いまは明治の町として知られている町です。町の歴史は大変古く、いまから800年前1189年、平泉藤原氏の滅んだあと奥羽の押さえとして、勲功ことのほか抜群だった下総国(千葉県北部)葛西庄を領していた葛西清重に、平泉を中心に岩手県南部の磐井郡・胆沢郡、宮城県北部の登米・牡鹿郡を与え、奥州総奉行に任じ、頼朝に代わって戦後の奥羽のご家人の取り締まり及び治安維持にあたらせましたが、登米は葛西氏が居城を構えた場所で、以来葛西400年の拠点として歴史に重きをなした場所であります。その葛西氏の居城保呂羽城の頂上は、360度のパノラマが展開しています。
 正面、南方から西北にかけては広大な仙台平野が広がっています。その正面には仙台平野を分断するように大きな山塊が眼に飛び込んできます。千三百年前、
  すめろきの御代栄えむと東なるみちのく山にくがね花咲く
と『万葉集』に詠まれたわが国はじめての産金地と知られる小田郡の山々です。
 目を左方に向けていくと山の峰々が連なっています。北上山地の山々です。その下には大河北上川が流れています。北上川は、岩手県七時雨火山南東斜面を水源とすし249キロの長さを誇るわが国第4位の大河です。歌や文学にも扱われてきた場所です。
 目を少し右に向けると遙か彼方に大きな山が霞んで見えます。古今和歌六帖で、
  みちのくの阿武隈川のあなたにや人忘れずの山はさかしき
と『古今和歌六帖』謳われた不忘山を初めとする蔵王の山々です。さらに右側に眼を移していくと泉・北泉ヶ岳の山が見え、その前に7つの独特な山が展望できます。その山の麓が、
  うらわかき心みだれをひそかにもかなしめる身と人に知らゆな
  家ごとにすもも花咲くみちのくの春べおこもり病みてひさしも
などの歌で知られる大正時代、柳原白蓮、九條武子とともに大正の3閨秀歌人といわれた、原阿佐諸の生誕地大和町宮床です。
 さらに目を右の方に移動していくと標高1500メートルの船形の山々が見えてまいります。この船形山は山形県側では、800年前1221年承久の乱に敗れた後鳥羽上皇の皇子順徳天皇が逃れ住まわれたと伝えられ、御所山と呼んでいる山でもあります。承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって公家勢力の衰微、武家勢力の強盛を招いた戦乱です。上皇は隠岐(島根県)に配流、順徳天皇は佐渡(新潟県)に配流されましたが、山形の地元では順徳天皇はここに潜まれたと伝えられています。
 そこから広がる広大な平野が有数の穀倉地帯大崎耕土です。その中心が、『後拾遺和歌集』にある藤原道雅の和歌、
 みちのくの緒絶の橋やこれならんふみみふまずみ心まどはす
で知られる「緒絶の橋」の所在地でもある県北の中心都市古川です。この古川は、民本主義を唱え大正デモクラシーに多大な影響を与えた吉野作造(1878〜1933)の生誕地でもあります。
さらに眼を右に転じていくと深い山々が連なっています。その山の麓には『古今和歌集』で、
  おぐろ崎みつの小島の人ならば都のつとにいざと言わましお
と謳われた鳴子の景勝地小黒崎・みつの小島があります。
  さらに目を右に移していくと、ひときわ大きな山が見えてまいります。
  陸奥の栗駒山のほゝの木は枕はあれど君が手枕
と『古今和歌六帖』に謳われた秀峰、標高1627メートルの栗駒山です。その麓には花山村、金成、金洗沢などの黄金伝説を秘めた場所が広がっています。広大に広がる農地は、栗原耕土といわれる穀倉地帯です。この中の金成町は『伊勢物語』で、
  栗原の姉歯の松の人ならば都の苞にいざといわましお
と謳われ、あるいは鴨長明の、
  ふる里の人に語らむ栗原や姉歯の松の鶯の声
と謳われた「姉歯の松」の所在地でもあります。この金成町には、国の重要文化財に指定されている旧有壁宿本陣があります。本陣は、奥州の各藩主や幕府巡見使が参勤交代や領内巡見の際、宿泊した場所です。
 この栗原耕土と隣接する登米耕土の間には長沼などがありますが、その一つ伊豆沼・内沼は、野鳥の楽園サンクチュアリに指定されています。
 さらに目を右の方に向けてまいりますとたくさんの山々の峰が眺望できます。見分けがつきませんがほぼ真後ろになりますが、平泉に聳える束稲山をはじめとする山々です。
 850年前に平泉を訪れた西行は、京の都の外に平泉文化を見出した驚きを、束稲山に爛漫と咲き誇る桜の花に事寄せて、
  聞きもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは
と謳いました。西行はそれから43年後再び平泉を訪れますが、69歳の西行の身みにはこの旅は、辛かったのでしょうか。
  とりわきて心もしみて冴えぞわたる衣河見にきたる今日しも
という和歌を残しています。秀衡は、西行と会った翌年、泰衡のこと義経の身を案じながら波乱に満ちた生涯を閉じています。平泉藤原氏が滅んだのはこの2年後、西行はその翌年、
  願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
という和歌を残して、示寂しますがどのような想いで西行は平泉藤原氏の落日を見守ったことでしょうか。  束稲山の麓一面に広がる田園と小高い山々が、八百年前、四代にわたって百年の間皆金色の文化を華開かせた平泉藤原氏の夢の跡です。束稲山や衣川を始めとするみちのくの趣深い山河は、時の流れを押しとめたように、私たちを往時に誘ってくれます。
杜甫の詩「春望」です。
    春望 杜 甫
  国破山河在  国破れて山河在り
  城春草木深  城春にして草木深し
  感時花濺涙  時に感じて花にも涙を濺ぎ
  恨別鳥驚心  別れを恨んで鳥にも心を驚かす
  烽火連三月  烽火 三月に連なり
  家所抵万金  家所 万金に抵る
  白頭掻更短  白頭掻けば更に短く
  渾欲不勝簪  渾て簪に勝えざらんと欲す
 このような抜群の展望を誇る葛西氏の居城保呂羽城は、東西1キロ四方の中世における県内最大級の城跡でもあります。目を正面に戻すと大きな句碑があります。その句碑には高浜虚子の、
  遠山は日の当たりたる枯野かな
の句がが刻まれています。
 この保呂羽城は戦国時代にいたり、要衝寺池城として興亡が繰り広げられました。1590年豊臣秀吉の奥羽仕置きによって葛西氏は滅亡、その後豊臣秀吉の直参旗本木村吉清父子が30数万石で入城しますが、家臣に恵まれず、野武士・夜盗の類も高禄で召し抱え、そのものたちが乱暴狼藉を働く、強権政治をおこなう、それに不満を持った葛西・大崎の遺臣を中心に大崎・葛西一揆が起こったのです。これによって木村氏は没落し、その後を水沢城主白石宗直が入城、以来登米伊達13代270年の礎を築いています。この頃には、寺池城は向かい側の小高い丘に構えられました。登米は藩政時代、城下町として盛岡、石巻を結ぶ北上川水運の中継点として大いに賑わいました。藩政時代の寺池城址には、高浜虚子の流れをくむみちのく俳句会主宰原田青児氏の、
  淋しさは帰燕の空のある限り
の句碑があります。
   明治にいたり、今の宮城県の県域が最終的に確定するのは明治9年の統一宮城県の成立によってですが、その間地域の組み合わせがいろいろかわり、登米には登米県、水沢県がおかれその県庁所在地でもありました。のちに総理大臣となる斉藤実(1858〜1936)、後藤新平(1857〜1929)は給仕として水沢県庁に勤務、多感な少年時代を登米町で送っています。
 斉藤実は水沢市の出身で、少年時代水沢県の給仕をしていましたが、ある夜、県庁が火事になり、真っ暗ななかで多数の人々があわてふためいて書類を持ち出したり、什器を運んだり右往左往していたとき、落ち着いて廊下の要所要所にローソクを点じて明かりを付け大いに人々に喜ばれ、その機転と沈着な行動が激賞されたというエピソードを残しています。勤勉で利発の才が認められ、海軍兵学校を優秀な成績で卒業、日本海軍育てに親といわれた薩摩出身の山本権兵衛の後を受けて薩摩閥の牙城の頂点である海軍大臣となった逸材です。のちに首相等を歴任しますが、二・二六事件の時凶弾に倒れています。
   後藤新平は、須賀川医学校を卒業、愛知病院長など歴任した後、台湾総督府長官として砂糖、樟脳の産業開発など植民地の経営に業績を上げました。のち東京市長、関東大震災後は、内相兼帝都復興院総裁となり東京復興計画を立案し、また政治倫理化運動や日ソの国交調整に務め、近代日本建設のためパイオニア精神を発揮しました。
 また登米にはいろいろな人が訪れ、記録をとどめています。300年前には芭蕉が一泊、150年前には吉田松陰が登米に一泊しています。
 吉田松陰(1830〜59)は、佐久間像山に洋学を学び、常に海外事情に意を用いました。1851年風雲急を告げる幕末、憂国の思いに駆られ22歳の12月から3月にかけて厳寒の東北を旅し、津軽海峡では、自由に航行する外国船を見て国防の必要性を痛感、養賢堂では時事を論じその間の記録を『東北遊日記』にとどめています。1854年(安政1)米艦渡来の際に下田で密航を企てて投獄。のち萩に松下村塾で子弟を薫陶しています。木戸孝允、前原一誠、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、品川弥二郎ら歴史に彩りを添えた人々です。安政の大獄に座し、30歳で江戸で刑死します。明治以降も登米には、板垣退助、尾崎行雄、河東碧梧桐などいろいろな人たちが訪れ、記念の品や、想い出をとどめています。このようないろいろな歴史を秘めた町でもあります
。  古い町並みがそっくり残っていたのですが、昭和27年大火のため登米の本当のいい部分がほとんど消失してしまいました。いまは残った一部をつかって町づくりを進めているところでもあります。
 登米小学校校歌は、いまの町の基礎作りをした四百年前の先人達の苦労を偲ぶ歌で小学生に歌い継がれています。土井晩翠作詞の、次のような校歌です。
 校歌 作詞 土井晩翠  作曲 山本正夫
 1 三百余年いにしえの郷土の歴史物語る
   戦いの後荒廃のあとを拓きし我が祖先
 2 その恩沢をうけつげる登米の町の我が母校
   北上川を前にして分水嶺を遠く見る
 3 謙譲進取勤倹の道をおさむる学窓の
   子等は一千六百を数う郡内一の校
 4 嗚呼紅顔の若きとき時を惜みて身をせめて
   日々向上の道すすめのぞみの光ほがらかに
 この校歌は、大崎・葛西一揆で荒廃しきった登米に水沢から移封され、北上川の改修、農地の開拓、城下町の建設など当時の町づくりに励んだ、先人の遺徳を謳ったものです。
 小さいときの想い出ですが、農地解放の時全部解放したので、生活は大変苦しかったですが、何か夢のある希望に満ちた生活であったように記憶しています。
 姉が4人いましたが、それぞれ姉弟仕事の役割をもって生活の一翼を担っていたように記憶しています。一番上の姉は、和裁洋裁の先生をしていたので、私たち兄弟の着ているものはオーバーも含めて、姉や母が全部作っていました。買ってもらった記憶はありません。姉の嫁入り衣装もみな自前でした。祖母は長崎出身、母は岩手県、その前もみな遠くから嫁に来ていたので地元には一軒も親戚がありませんでしたが、当時はまだ家のことをすべて取りしきっている人が健在で、戦後の混乱期を乗り切れたのではないかと記憶しています。何時の日でしたか畑仕事を家族総出でやっていたとき、夕焼け空の頭の上で数え切れない赤とんぼが乱舞していたのを、今でも鮮明に記憶しています。
 100年近く養蜂をやっていたのですが、蜂蜜を絞るとき甘い香りが周囲に漂うと、何とも豊かになった記憶もあります。サンマやイカが大量に手に入ったときは全部、薫製やソーセージに加工していました。トマトはケチャップにというふうにいつも保存食をつくっていました。田を少しでも残せば、生活は苦しくなかったのですが、相談した父の弟が当時宮城県の農地解放の最高責任者で、強く全部解放するようにといわれ残さなかったのは失敗であったのだろうと思いますが、そういうものをせっせと作っていたので、家にはいつも友人がたくさん来ていました。今とはちがって、先行きには何か明るい未来を見出せた時代ではなかったかなと思います。
 小学年生の時、当時地元の県立高校の校長先生が私の先行きを心配され、東北大の文学部を卒業されたばかりの先生を家庭教師に送り込んでくれました。樹木の話、漢方薬、水泳、剣道、草笛、催眠術、魚釣り、星の話、毎日のように来ていろいろなことを教えてもらいました。今考えればもっとよくまじめに学ぶべきであったと思います。
 私が育った頃は、戦後民主主義の名の下に古いものがあるときは不当に否定された時代で、特に上の姉たちは一部教職員組合の先生たちからはいじめられたようで、両親の悩みの一つでもありました。私の頃にはずーと改善されていましたが、そんな時代でもありました。
 私の育った頃は、財閥解体や農地解放によって親戚の多くが打撃を受けた時代でしたが、不満も述べずおおらかに生きていたのが印象的でした。昔の人は諦観というものをもっていたのだろうと思います。失ったものにはあまり固執せず、さばさばした生活をしていたのはさすがだと思ったものです。もちろん中には綿々とこだわりをもって生活をした人もいたと思いますが帰って悪い状態をつくっていったのではないかなと思います。我々姉弟は、頼れるものといえば自分だけですから、勉強も適当にしましたし、体も鍛えたように記憶しています。
  私は、幼かったときから体が丈夫でなくいっも休んでいました。心配した父が小学4年生の時、七面鳥をもらってくれました。父と一緒に30分軽便鉄道に乗って貰いに行きました。帰るとき車中で私の膝の上で頭だけ出している3羽の雛の温もりを感じながら、大切な宝物を手に入れた喜びを感じたものです。それからいろいろな動物を飼いながら体は丈夫になっていきました。
 父が、畑の一部を6区画にして花壇として子供たちに与えてくれました。自分で種をまき苗を育て、花を見る。種を取る。いやが上にも自然の草木や動物昆虫にも興味を覚えたものです。さてこんな時代を通して、私も心を豊かに耕したのではないかなと考えています。
 さて、地元の小・中・高校を卒業したあと、東京農業大学で4年間学びました。生活をした寮は五城寮という名前でした。この寮は、財団法人仙台育英会が運営している歴史の古い寮でした。養賢堂の流れを引き継いだ寮で、旧仙台藩の関係する地域に住んでいて、東京近郊の大学に入った人を対象としている寮でした。場所は、品川区大井町の旧仙台伊達邸跡です。藩政時代は仙台藩下屋敷で寛文事件の時三代藩主であった綱宗が幕府から不行跡を理由に逼塞を命じられ、21歳から71歳で亡くなるまで50年間一歩も外に出ず生涯を終えた場所でもあります。明治にいたり伊達伯爵家の東京屋敷として使われましたが、太平洋戦争で東京空襲が激しくなったおり敷地の半分が接収され品川湾が見渡せる高台に高射砲がおかれた場所です。敷地面積は14000坪、戦後財産税の支払等の必要から西武に売却されましたが、その一角にその寮がありました。当時は旧伊達家の立派な門柱などが残っていました。この寮に入るのには、高校長の推薦を受け、県教育庁の選考を受けた上、論文試験、面接試験を受けてるシステムで、全体で四十名ですから、毎年十名前後入寮を認められた寮です。大学にはいるより入寮が難しいことで有名でした。
 当時の舎監は山梨勝之進元学習院長、その後が大野董元海軍中将でした。山梨先生は、旧仙台藩士の家に生まれました。屋敷は今の一女校です。海軍兵学校、海軍大学を経て「香取」艦長を歴任、大正10年(1921)ワシントン軍縮会議随員として全権大使の加藤友三郎を助け、昭和3年(1928)には海軍次官となり、海相の財部彪とともにロンドン海軍条約締結の取りまとめに尽力しました。軍事的才能と数理的な頭脳に恵まれ、海軍を代表する知性派で、とくに請われて昭和14年(1939)から昭和21年(1946)まで学習院長となり、今上陛下の皇太子時代にそのご教育にあたりました。郷土の後進の育成にも意を尽くされ、五城寮の舎監として夫人と共に寮生と起居をともにされました。夫人は鹿児島県令の娘ですが、そのようなことはおくびにも出さず寮生のためある時は母のようにある時は良き相談役としていつも優しい心で接しておられました。そのあとを継いだのが、海軍技術中将をやられた大野先生でした。ご夫妻で寮生と起居をともにし、全人教育に献身的にあたられました。山梨先生が高齢のため退官され、そのあとを継いだのですが山梨先生が寮に来られたりすると、帰られるとき80を遙かに越えられた山梨先生が、、靴を履かれるとき大野先生は山梨先生の前に腰を屈められ靴の紐を結ばれるなど誠心誠意、お尽くししていた姿は今も瞼に焼き付いています。大野先生も80近いご高齢ですが、本当に温かさがにじみでていました。
 寮にはさまざまな方が来られました。吉田茂、今東光、日経連会長をやられた大槻文平、日本鋼管社長・東北開発初代総裁渡辺政人そんな人たちが寮を訪れ、いろいろなお話をされていきました。「今から皇太子ご夫妻のお招きで晩餐会に行ってまいります」と嬉しそうにいわれて、出かけた山梨先生の姿が今も瞼に焼き付いています。ある日先輩が「今村大将がこられた」と部屋中に知らせました。私は今村大将は、とっくに亡くなっていると思っていましたが、健在で舎監を訪ねてこられたのです。穏やかな孤高の人の印象、重さを感じました。今村大将は仙台に生まれ、陸軍士官学校を主席で卒業し、数多い作戦を通じて一度も敗れなかった名将で、司令官としてジャワ島を攻略しますが、占領後の軍政は現地住民の意思をよく配慮したもので、全占領地のなかで最も親日的なところといわれました。戦後、オーストラリア軍法廷で禁固10年を宣告され巣鴨刑務所に服役中、部下の戦犯達がマヌス島で苦役に従わされていることを知ってマヌス島行きを強く望み、現地で部下とともに服役したことで著名です。こんな東京での思い出があります。山梨先生時代、先生を訪ねて来られた方が、庭師に「山梨閣下はどこにお出でですか」と尋ねたら「私が山梨です」と答えたというエピソードも伝えています。また、デモに参加した寮生が警察に拘置されたとき自ら学生を受け取りにいき、署長以下が見送ったというお話も先輩から聞きました。
 私は、次の大野先生の時お世話になりましたが県庁に入ってからは、よほど私のことが心配だったのでしょうか。大野先生は、県庁にこられると知事、副知事や、教育長のところへ挨拶に見えられました。また夕食をご馳走になりながら、いろいろお教えを頂いたものです。海軍出身の幹部らしく、ホテルのに訪ねても、宿に訪ねてもきちんとネクタイを結ばれ、背広姿での対応でした。先生はお出かけになると必ず奥様にプレゼントを用意されましたが、光栄ある帝国海軍の面影を見るようなまぶしい思い出が鮮明に焼き付いています。
 寮の決まりとして、半年交代で部屋替えをさせられました。1部屋2人での共同生活で半年交代で必ず組む人を替えることが義務づけられていました。4年間いれば8人の人と同じ部屋で生活をするようになるわけで、私は8人の人たちと同室で寮生活を送りました。入寮した頃は模範生だったと思いますが、寮を出る頃にはよく言えば幅が、悪くいえば清濁併せのむようになったのではと思っています。このようなことを通していろいろなことを学ばせてもらいました。先生はいつもモラルオブリケーションが口癖でもありました。当時はこのような寮は皆無で、毎年新聞で大きく紹介されていましたが残念ながら、今はその寮はありません。
 4年間の東京生活の後、県庁に入りました。県庁に入って間もなく、薄田清先生と親しくお付き合いをさせていただきました。先生は、薄田泣僅の姪に当たられ岡山県の出身です。ご主人も同じ名前の薄田清で、岡山県の同じ町でいとこ同士でしょうが、よく手紙が間違って配達され、届けに行ったものだと話されていました。女学校時代は、懐剣をふところに通学さてたそうです。
 ご主人は東大、清先生は奈良女子大をに進まれ、結婚されたあと仙台にこられたようです。初代の宮城県地域婦人連絡協議会長、新県民生活運動協議会副会長など社会教育のため多大のご貢献をされた先生です。役職は長く付いているべきではないということで、地域婦人連絡協議会長は1年か2年でやめられています。先生のお供をして蔵王やコバルトラインの、栗駒山などの清掃奉仕などをしていましたが、木々を見て万葉集の和歌を教えてくれ解説をしてくれる、そんな先生でもありました。県庁の後ろ北2番町にお住まいになられていたのですが、何度か先生の手作り料理をご馳走になりました。先生のお家は女性のサロンのような役割を果たしていたようで、いろいろな方を紹介していただき勉強をさせられました。ある時80に近い上品なご婦人を紹介されました。有名な仙台市長をやられた早川智寛のご子息の婦人でした。早川さんの家に私の伯母が東華女学校時代にお世話になっていたのですが、その当時の写真があるから見に来るようにといわれたものです。ご本人はなにもお話になりませんでしたが、お父さんが満鉄総裁、日産自動車の創始者で日産コンツェルンの総帥鮎川義介です。岸信介、佐藤栄作の従兄弟になるかたでした。早川智寛は宮城県職員技師として国家的なプロジェクト野蒜築港計画を具体に計画策定された人です。俄に日本史が身近に感じられ嬉しくなったものです。
 県庁にいるといろいろな人たちに巡り会える機会が多く、そういう人たちとの交流を通して人として育てられてまいりました。県庁に入ったときは農業経済課で農協指導を担当、その県民生活課で明るい職場づくり、教育庁行政課で『教育宮城』を担当、企画調整課で国土利用計画・第2次長期計画策定に携わりました。広報課で東北放送、仙台放送で県政番組を担当、地域保健課では健康づくりを担当、その後、2代の県議会議長の秘書係長をしました。そのあと第3次宮城県総合計画の総合計画班長、総務課の文書企画班長、魚政課で日ソ漁業交渉に基づくソ連漁船の日本への一時寄港の対応の仕事を担当、右翼、同和対策を担当しました。そして地域振興課、港湾課の仕事をしました。そのあと、仙台地方県事務所、文化振興課、迫地方県事務所、政策調整官、仙台産業振興事務所を経て、今は図書館勤務となりました。いろいろな仕事を通して感じたことともうしますか悟ったことは、何が一番大事だったかといえば、学歴やバックではなく、極めて単純ですが健康であること、常識的にものを見て考え判断できること、人の話していることを是々非々で聞き、自分で決断できること、自分の気持ちを率直に表現できること、そして常に前向きに進む気持ちのあること、常に全体的な立場で俯瞰すること、余談ですがそんな気がしています。
 県庁に入ったころは、北4番丁の松尾神社というところに下宿をしていました。
 東京からきて初めて生活をした仙台は、手頃な大きさの町で、土曜日や日曜日は松尾神社から散歩をしていました。東照宮の後ろをずーと散歩をしていたら、ある時松林の原生林に出会いました。その中は大変美しいつげの古木が数えきてないほどありました。「いまでも仙台近郊にこんな場所があったのか」と大変嬉しくなり、当時読んでいた「緑の館」がふと脳裏をかすめたものです。それは大変見事な美しい原生林でした。草原に寝ころび、松の梢を眺めながら小鳥のさえずりを聞きしばしの静寂を楽しんだものです。大変好きな場所だったので時々散歩に行って、楽しい一時を過ごしたものです。
 石川啄木が盛岡中学時代、授業中の教室から抜けだし、裏山の古くは来不方城と呼ばれた盛岡城址の草むらに寝ころんで、北国の澄み切った青空を眺めながら、限りない青春の思いを夢をふくらませていったとき詠んだ歌として知られている、
  来不方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心
のように、私も澄み切った心境であったような記憶があります。しかしそのような静かな夢もまもなく打ち砕かれてしまいました。ある日遠くの方から「ゴー、ゴー」という音が聞こえてきたので林をかき分けながらその音のする方へ行ってみたら、足下がにわかに広がり前方には地肌が露わになった見渡す限り広大な造成地が広がっていました。私の立っている場所は小高い丘のような場所でしたが、足下は無惨にも削り取られていました。そして遙か彼方でブルトザーせわしく動き回っていました。
 にわかに信じられない光景でした。原生林と思っていたその側で大きな開発が行われていたのです。その次の週も、その次の週も一人で見に行きました。県庁の人に聞いてみても皆半信半疑で、そんなものが造っている訳がないというのです。しばらくしてからわかったのですが、今の鶴ヶ谷団地だったのです。その前後から仙台周辺特に北部の開発、私にいわせれば破壊が急速に進んでいったように記憶しています。あの立派な古木はどうなったのでしょうか。おそらくすべて切り倒されてしまったのだろうと思います。痛々しいく山が削られていく状況をただ呆然と見守っていた記憶が今も鮮明に残っています。
 当時、林業の専門家として県庁に入った同期の人が林道を造るときたくさんのドウタンの古木を無造作に切り倒していること、本人は大変もったいないと感じていることを話していましたが、このころから日本人は心の豊かさからものの豊かさのみを追求する方向に大きく傾斜をしていったのではと最近実感として感じています。
 私が県庁入った昭和40年代、仙台の町はまだ風格があったように思います。当時宮城は長崎、東京、北海道とともに明治の建物がたくさんある県として知られていました。残念ながら高度経済成長の過程の中でこれらの貴重な建物は無造作に壊してしまいました。明治ではありませんが、旧宮城県庁舎は関東大震災後に建てた建物で、大地震にも耐えられるような頑丈な作りでした。鉄骨がない当時、鉄骨の代わりに東北本線の鉄道線路が使われたがっしりした建物でしたが、老朽化の名のもとに無造作に壊されてしまいました。 昭和40年代仙台城の天守台から見る仙台の町は、緑と調和したまだきれいといえる風格のある町だったように記憶しています。いまはどうでしょうか。新しい立派な高層ビルと引き替えに何か大切なものを失ったように思えてなりません。古い良い建物が急速に失われていくことは、何か風情や風格が失われるようで大変残念に思うのは私だけでしょうか。
 昭和40年代までは、農村に行っても古い農家の建物が残り風情ある風景が展開していましたが、農村風景も一変し、いまはみな全国至るところ同じような風景となってしまいました。イギリス、フランスを見ても何百年苗の建物が身近にあり、例えばパリジャンヌといわれる最先端の流行をいっているように見える女性も、一歩家の中にはいると何百年引き継がれてきた伝統文化の中で生活をしているということを聞いたことがあります。自由の国アメリカにおいてさえ日曜日ともなると、教会に行って神と謙虚に向き合っています。最低の規範をそのような場を通して身につけています。日本人には何かそのようなものがあるのでしょうか。寄って立つ心の原風景がないということは大変恐ろしいことではないでしょうか。次代を担う子供たちに寄ってたつ心の原風景、ふるさとの歴史や文化を正しく伝えていきたい。そんな気持ちを持っています。自信と誇りを持ってふるさとを語ることのできることは大変大切なことではないでしょうか。