『東遊雑記』は、備中の人古川古松軒が、幕府巡見使に随行して、1788年、63歳の5月6目江戸を発って出羽、津軽、蝦夷地まで行き下北、南部、仙台と下って10月江戸に帰着するまでの見聞を、図入りで記した紀行文です。その旅の概要を紹介します。
5月6日江戸を発った一行は、古河、宇都宮、白河を経て会津若松に入りました。
「若松の町家草葺きにして、瓦葺きは希なり。寒気強き所よわしという。城も平城にて要害の地とは見えず。御城主松平肥後守。ここは昔時葦名氏の古城跡にて、その後上杉家・蒲生氏在城ありしなり。会津侯は二十三万石の御大家ながら、城下甚だ侘びしく賎しきなり。御城下ながら備前岡山の城下などに見くらべば大いに劣れり。」
磐梯山、飯豊山を眺めながら猪苗代、郡山、須賀川、三春を経て田村郡・安達郡堺縄木峠から、安達が原に出ました。
陸奥の安達が原の黒塚に鬼こもれるといふは誠か 平 兼盛
「鬼は陰にして女のことをいう説あり、老婆旅人を留めて財宝を奪い取り、その旅人を殺すは鬼なり。今の世にもこの類多し、黒塚のみに限らず、国ぐに政道を司る役人にもこの鬼の類多し。民百姓に課役をかけ金銀を取り上げ、人民難儀に及び愁訴するものを徒党と名付け禁獄し、または誅するの類い、安達が原の鬼よりは遥かにまされりというべし。」
二本松、福島を経て信夫郡佐場野医王寺を巡ぐり米沢に出ました。
「何方へ行くも御巡見使御馳走役人を出され、その丁寧言語に尽くし難し。かえってこの方の供廻り迷惑に思うほどなり。米沢領などにては別して厳重にて、雨ふるにも人足に出でしものども蓑笠を着せず、また煙草を飲まず。通行の道筋、家いえの門戸を閉じ、不浄所を目隠しをなし、止宿または休息所などの亭主は、七日以前より精進潔斎して御馳走し奉る。米沢侯の御計らい下じもまでよく行き渡りて、混雑無礼がましきことなく、庄屋案内の者までも行儀なり、しかれども余り敬い過ぎて、和することなきゆえに、不便なる儀おおし」。
小国を経て、山形、天童、新庄、鶴岡、そして鳥海山を見ながら象潟に入りました。
象潟や今はみるめのかひもなしむかしながらの姿ならねば
湯沢、横手、花館、秋田、弘前に至り、岩木山を遠望しました。
「女人は禁制の山なりといえり。予思うに安寿姫を祭りし山なるに、何とて女人を禁ずるや、いぶかし。山険しきゆえに婦人を禁ずるなるべし。女人を嫌う神も仏も有まじきに、国を傾け城を傾くる女人を赦さば山をも傾けんとて、国々に女人禁制の山多し。婦人にて迷惑のことなり」。
北海道に渡った古松軒は、アイヌの風俗にも関心を示しました。
「蝦夷にコサ笛というものあり。長さ一尺五、六寸より二尺までにて大小あり。中に真もなく、異木の皮をくるくると丸く巻きて製せしものなり。古き歌に、
こさふかば曇りもやせん陸奥の蝦夷になみせそ秋の夜の月」
北海道から陸奥国入りした一行は、青森、盛岡、水沢、気仙沼、一関、有壁、金成、若柳、登米、柳津を経て石巻に入りました。
「石の巻は奥州第一の津湊にて、南部・仙台の産物この地へ出て江戸に積み、大坂へ回るゆえに、諸国よりの入船数多にして繁昌の湊なり。案内の者より申し上げしは、市中千四十七軒、寺院十八か寺、杜十一杜といいしことながら、湊村・蛇田村という所にては、予がつもる所三千軒余もあるべし。娼家も数家見え、人物・言語も大概よき所なり(中略)。北上川は先だって聞きしとは大いに違いし大河にて、川幅も広く水深し。千石船帆をかけて、何方へも勝手よき所へ走り、心まかせの川なり。」
陸奥の袖の渡りの涙川心のうちになかれてぞすむ 相 模
その後、松嶋、仙台、岩沼、白石、平、小名浜を経て江戸へ戻りました。合理主義的な透徹した目と旺盛な探求心で詳細、正確な記録をとどめた古松軒が大きな感動で眺めた阿武隈、北上、最上の大河は、今も東北の大地に豊かな恵みをもたらしています。
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