私の尊敬する先祖の一人は、11代宗充です。
天保の飢饉は多くの人々に不幸を与えましたが、南部領内から逃れて来た人々に温かい手をさしのべた領主もいました。仙台12代藩主斉邦の父である一門登米伊達11代宗充です。宗充は若年で藩主となった嫡子斉邦の相談役として藩政に重きをなしました。宗充は、天保の飢饉時、身一つで岩手県地方から逃れてきた人々に米を支給し、開発した土地を与えるとともに、足軽に取りたてるなど領主と領民が心を一つにして、困難に立ち向かいました。宗充が世を去った時、深い恩義に報いるため二つ屋(豊里町)の住民たちは一致して神社建立と神霊化に努力し、7年目その実現をみました。それについては次の「宗充公顕彰碑」に詳しく記されています。以来地元ではありし日の宗充を偲び感謝の祈りをこめた祭りを開催してきましたが、昭和58年(1973)には、顕彰碑を建立しました。天明、天保の飢饉時においても困難を克服するため各地で前向きな努力が払われた一例です。
伊達長門宗充公顕彰碑
第七十代内閣総理大臣 鈴木善幸書
喚山神社縁起
伊達宗充公、仙台藩主五代吉村公の孫で初幸充後式部又長門と号した。登米11代館主である。又、宗充公の長子斉邦公は、仙台藩の12代藩主となっている。
享和3年(1803)、兄村幸公の家嗣となって封を継いだ宗充公は、歴代館主と同様に、荒田再墾や新田開発を治政の重要施策とした。
文化元年(1804)、北上川堤防を巡視し、まず防災工事の必要性を認め、文化5年(1808)、赤生津村新田七ツ塚より新田一番江まで、新堤を築き50間四方の水害等の避難場所を造成する。因って、農民不足により、鹿角・花巻方面から、佐藤嘉助以下25戸を招請し第1次の入植を施く。翌文化6年、先に入植した人々を頼って、同じく鹿角・花巻方面から12戸が第2次入植する。斯くして70貫文の荒田再墾と40町歩の造成を行った。文化7年(1810)、先住者即ち、寛政12年以降の野谷地番、安藤・金子両人の二ツ小屋及び、宗充公に足軽に取り立てるよう諮った、肝入り佐藤六蔵を加え合計40戸を散田足軽として登用した。
さらに、天保4年から始まる「天保の飢饉」は、想像を絶するものであり、とくに南部領が酷く、仙台領に越え逃れる者多数であった。宗充公は西前二ツ屋の開発を敢えて企画し、和賀・胆沢方面の一部流民60人大凡12・3戸を第三次入植させた。之に出入司中島兵蔵を特派、補佐役として土着家臣佐藤六蔵、同佐藤源蔵、同伊藤勝蔵を任て、臣民一体となって開墾した土地は其れ其れ興え、散田足軽として、土着させた。
天保14年(1843)6月11日、宗充公卒する(喚山惺々と追諡された。)に依って我々の先祖は、喚山公への報徳と苦難克服の拠りどころにする為、喚山公の霊を神として奉りたい旨、衆民一致して登米館主に申し出た。然し神社を建て、新たに神として奉る事許されず先ず登米八幡神社を分祀し、八幡神社として奉祭した。
嘉永2(1849)、喚山公の7回忌を迎え、再び登米館主に願い、喚山公が執った弓矢を乞うて、御神体とし先の八幡神社に改めて喚山神社を並祀し、今日尚朝な夕なに崇拝し年1度の縁日には厳かに、且つ盛大に祭りを開催している。
我々二ツ屋老人クラブ緑寿会々員は、喚山公と先祖の偉業・遺徳を継承し、以って、長い風雪の間に忘れ去られようとしている喚山神社縁起を後世に伝える為、碑を建立する。
追記 題字を鈴木善幸氏に依頼したは我々先祖が同氏と同郷岩手県出身である所以によった。
昭和58年旧8月
豊里町郷土史研究会々長 佐 藤 勝 義 撰 文
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