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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
みちのく再発見
2001年10月21日


 1950年(昭和25)3月、平泉藤原三代の遺体の学術調査が実施されたおり、三代秀衡の棺のふたが開かれ、初めて秀衡と対面したときの感動を、作家の大佛次郎は、次のように記しています。

 「私は、義経の保護者だった人の顔を見守っていた。想像を駆使して、在りし日の姿を見ようと努めていたのである。高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭を、はっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立ちと称してはばからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした人の顔が、これであった。」

 調査では、おびただしい副葬品も出てきましたが、その中には豆粒ほどの小さい金の鈴がありました。それを棺の中から拾い上げ静かに振って鈴音を聞いたときの感動を、当時の中尊寺執事長は、のちにこう記しました。

 「黄金というには余りに可憐な金の小鈴、思わず呼吸をつめた私は、目を閉じ心意を一点に凝らして、静かに静かに振ってみた。小さく、貴く、得も言われぬ神秘の妙音。八百年後の最初の音を聴き得た身の果報。それはまさしく大いなるものの愛情による天来の福音であった。連日続くあの騒擾に、恐らくすでに爆発寸前の感情にあったろう私は、文化を護る道は、ただ〃愛情″の二字に尽きることを、この瞬間に強く悟り得たのであった。」

 歴史や文化を正しく継承しこれを次代にしっかりと引き継いで行くのは、何にもまして歴史や文化に対する尊敬と、温かい気持ちがあって初めて可能ではないでしょうか。そんな気持ちでみちのくの歴史と文化を振り返ったとき何と素晴らしい歴史や文化が花開いていたことでしょう。九百年前の歌人源俊頼は、みちのくのシンボルでもある宮城野の美しさを通してその奥ゆかしさを絶唱し、

 さまざまに心ぞとまる宮木野の花のいろいろ虫のこゑごゑ  「千載和歌集」という和歌を残しています。何と美しく、心豊かになる和歌でしょうか。

 司馬遼太郎は、青森を「言葉幸わいたまう国」と表現しましたが、青森だけでなく東北は、もともと言語表現の豊かな国でした。加えて山や川を敬い、生きとし生けるものに限りない慈しみを持っていました。山に対するとき山もまた人に対し、岩に語りかけるとき岩もまた人に語りかけると信じていました。人は大自然の一員として生きとし生けるものを大切に扱うすべを知っていました。美しい山河とそこに優しく生きる人びとの住むみちのくは、遠い都の人びとに憧憬を抱かせていったのです。

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関  「後拾遺和歌集」で知られる能因法師(998〜没年未詳)は二度みちのくを訪れたといわれ、その歌学書(和歌の手引書)で、陸奥国、出羽の国を第3、第6の歌枕の国と位置付けましたが、遠いみちのくが上位を占めています。一千年以上前すでに東北は、文学的には都の風土の中に組み込まれていたのです。そのみちのくを訪ねて、能因法師、西行法師(1118〜90)、宗久(生没年未詳、1350頃)、松尾芭蕉(1644〜94)らが訪れて、みちのくの美しさを愛でた和歌や俳句、紀行文を残しています。

 しかし多くの人びとの憧憬の土地であったみちのくは、特に明治以降、不毛の地、後進地域のようなイメージで語られるようになり、またそこに住む人たちも、潜在的にそのような気持ちを持つようになってしまいました。

 いまこそ私たちは、先人がふるさとの大地に刻んだ薫り高い歴史や文化をしっかりと見つめなおす必要があるのではないでしょうか。