宵山の祇園囃子の笛太鼓
もの思ふ夜の耳に聞こゆる 吉 井 勇
夜ともなると登米の町のあちらこちらから、「登米秋祭り」に向けた笛や太鼓の練習の音がかすかに聞こえてくる季節を迎えた。登米秋祭りは江戸時代から今日まで引き継がれてきた、登米の伝統文化の一つである。笛の音は哀愁をおび、祭りは雅そのものである。登米に住む小・中学校の生徒は全員参加で、生徒達にとっては一生の想い出となることだろう。以前のことになるが、東京に住んでいた同級生の女性が「伊達さん、私ね,毎年この季節になると耳の奥から笛や太鼓の音が聞こえてきて、夢中で列車に乗って登米に帰ってくるのよ」と話していた。彼女にとっては心の原風景として、多感な少女時代の時代の想い出がしっかりと心に刻まれているのだろう。心の原風景をもつということは大切なことだと思う。
私の家にも有形・無形のものがいろいろなかたちで引き継がれてきた。何百年かかけて出来上がった家風というものでもあろうか。なかにいる者にはわからないが、外の人から見れば一つのその家の者のもつ個性のようなものに見えるらしい。
その家風も他家から嫁に来た人たちによって積み重ねられていった。味もその一つであろう。物の見方、考え方もその一つだろう。特に明治以降のわたしの家は、長崎に生家を持つ祖母が、家に入ったことにより激変した。祖母の家は幕府から世襲制の通詞を言い付かった家で、日本外交の第一線を担った家でもある。祖母の父親は初代長崎県令である。祖母は初めて日本にできた東京女学校で学んだ。当時の写真には祖母の隣に宮本百合子の母が写っている。非常に開かれた感性をもった家風を代々培ってきた家である。
父の世代はみなこの家の影響を大きく受けた。学門を重んじ努力することを旨としてきた家でもあった。多数の優位な人材を輩出した。当時の祖母の生家の家族や姻戚の顔はみな気品と重厚さに充ち満ちている。子供心にも誇りをもったものである。わたしの家に限っていえば、明治以降急速に伊達家よりは祖母の生家に傾斜していった。一人一人が個性的に、自立心旺盛に育って行ったのは祖母の生家の影響であろう。
そんななかでわたしの家から出た人たちにはみな共通した精神的な拠り所がある。それは屋敷内にある先祖の廟である登米4代館主宗倫を祀る天山公廟である。困ったことや何か報告することがあるとみな天山公廟にお参りする。妙に落ち着きまた良い解決策を考える事の出来る場所でもある。思索の場所としては最高の場所でもある。このような神聖な場所はいつまでも伝えていきたいと考えている。そう考えるのもまた家風のなせる技なのだろうか。
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