私の幼少時代から少年時代は、戦後の混乱期、多くの人たちがその日を生きるのに精一杯の時代であった。当時の私の家の家族構成は10人であった。祖母、伯母、両親そして姉弟の6人である。
長崎出身の祖母は何時もキリッとしていた。町のどんな偉い人がきても祖母に対する態度は全く違っていた。だからといって祖母はえばっていたわけではない。いつも凪いだ湖のような人であった。母はその祖母を尊敬して仕えていたし、祖母も母を娘のように大切に扱っていた。農地解放で生活の糧を失った我が家の家計は父が働き支えていた。県の小作官をしていた叔父に相談したら、米など安いものだから田は全て解放するようにとの助言に従った処置ではあったが、せめて家族の食べる米がとれる田は残しておけば、そんなに苦しい生活は強いられなかったろうにと後で気づいたそうである。
米を除く食料、衣類はみな自給した。だから祖母や母の着物などはみな子供達の衣類に変装した。夜は祖母や母、上の姉たちは縫い物や編み物に余念がなかった。クリスマスには姉が作ってくれた素敵なオーバーを贈られたときの驚きはいまも忘れることが出来ない。
山の一軒家の我が家の燃料は家の周りでとれる杉の葉や木の枝、そして何年かごとに作る炭であった。畑にはいろいろな野菜が植えられていた。サンマやイカが安く大量に手に入ったときは手作り薫製にされ、あるいはソーセージにされた。たくさんのソーセージが並んだときは何とも裕福な気持ちになったものである。トマトはケチャップにされイチゴやリンゴはジャムにされた。こんな技術は我が家に伝わってきたものと、母が東京家政学院で学んだ成果でもある。
祖母からは昔話や想い出話を聞かされた。良く出てくる名前に「勝さん、団さん、渋沢さん、大隈さん、富田さん」があった。それが勝海舟、団琢磨、渋沢栄一、大隈重信、富田鉄之助のことであったのは、だいぶ後になり祖父の遺品の整理や、学生時代祖母の生家を訪れて見せられた手紙や写真からであった。
祖母はどんなことがあっても何時も毅然としていた。人の道、日本の歴史、戦争の悲惨さを淡々と語り、自由にものがいえるいい時代になったと話していた。
祖母はまさかこのような片田舎に住むようになるとは考えていなかった。アメリカの学校を出て伏見宮様の通訳官をしていた祖父との東京での生活が続くものと考えていた。生家の兄の急逝と混乱・没落のなかで、一時登米に帰省したが二度と東京へは戻ることが出来なかった。祖母は夜ともなると30キロメートル離れた場所を走る東北本線の汽笛に望郷の念を持ったこともあったろう。そんな祖母を励ますため三池製作所所長の兄夫妻が登米を訪れ、また何度か東京の兄の生家に招待してくれている。
私の育った時代は農地解放、華族制度の廃止、財閥解体などで、祖母や母の生家など多くの親戚の没落期である。良い意味で日本は平等な社会を実現した反面、そうした家によって支えられてきた一つの見識、日本の歴史や伝統文化が無造作に大きく崩れていく時代でもあった。
全てが民主主義、平等や平和の美名のもとに国民は浮かれ無責任な政治家や見識のない一部のマスコミによってもっと悪い時代を創りあげてきたのではないだろうか。思いやりのない社会、弱者が切り捨てられる時代、全国に張り巡らされた郵政制度が破壊され、年金制度が崩壊し、アメリカのいうグローバルの波に翻弄され、日本の国はどこへ漂流していくのだろうか。次代を担う人たちのため私には何が出来るのだろうか。そんなことを考えながら何百年も人々の生き様を見てきたであろう杉の巨木を部屋の窓から見ている。
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