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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「随筆パート1ー人生の四季」
2012年1月1日


 

 新しい年を迎えた。昨年までは何かと忙しくいろいろな仕事を手がけてきたが、今年は的を絞って仕事をしたいと考えている。私も人生の四季を考えたからである。
幕末の勤王の志士吉田松陰は、安政の大獄に連座して29歳の生涯を終えた。死を直前に『留魂録』という遺書ともいえる彼の心の内を記した記録をとどめた。その中に次の一節がある。(引用:古川薫著『吉田松陰 留魂録』)
 「今日、私が死を目前にして落ち着いていられるのは、四季の循環というものを考えたからです。おそらくあの穀物の四季を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れます。
 秋や冬になると、人は皆その年働いて実った収穫を喜び、酒などを造って、村は歓声にあふれます。未だかつて、秋の収穫の時期に、その年の労働が終わるのを哀しむということは、聞いたことがありません。
 私は享年三十歳。一つも事を成せずに死ぬことは、穀物が未だに穂も出せず、実もつけず枯れていくのにも似ており、惜しむべきことかもしれません。されども私自身について言えば、これはまた、穂を出し実りを迎えた時であり、何を哀しむことがありましょう。
 何故なら人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくようなものではないからです。
 十歳にして死ぬ者は、その十歳の中に自らの四季があります。二十歳には二十歳の中に自らの四季があり、三十歳には三十歳の中に自らの四季があり、五十歳や百歳にも、その中に自らの四季があります。
 十歳をもって短いとするのは、夏蝉を長寿の霊椿にしようとするようなものです。百歳をもって長いとするのは、霊椿を夏蝉にしようとするようなものです。それはどちらも、寿命に達することにはなりません。
 私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。
 もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう。同志の皆さん、このことをよく考えてください」。
 私が感銘した吉田松陰の魂の叫びである。誠実に真摯に国の行く末を案じながら、自ら処刑される道を選んだのである。時代を見据えた透徹した目が、心研ぎ澄まされた感性あふれるこのような名文になって今日なお多くの人たちに感銘を与えているのではないだろうか。松下村塾で松陰が門弟を教育した期間は2年に満たないが、この塾からは奇兵隊で知られる高杉晋作、禁門の変で知られる久坂玄瑞、明治以降は伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義らが、明治政府の最高指導者を担った。また、萩の乱を起こした前原一誠ら多彩な人材を輩出した。
 私の人生も四季に例えれば、これから自分のやらなければならないことが自ずから見えてくるように思う。毎週、仙台大学で週3コマの講座を担当して年間500人近い学生に講話をしているが、内容は、先人がいかにして困難を克服し、新しい時代を切り開いてきたかを個人の生涯を通して知ってもらい、学生が将来、困難や決断をもとめられた時のヒントになるように工夫しながら話をするように心がけている。このような時代だからこそ、実際に役立つ学問が求められているのではないだろうかとの思いからである。
加えて私は「日本の国のかたち」をテーマに積極的な講演活動を通して、多くの人々に自信と誇りをもってもらえるよう素晴らしい日本の歴史や文化、先人の生き様を紹介して少しでも日本人の心の再生のために頑張っていきたいと考えている。