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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「随筆パート2ー家康の遺訓」
2012年1月6日


 

 江戸時代草創期、幕府や各藩の国づくりにおいて、指導者がみせた見識は、今もなお光彩を放っている。それは長く続いた戦乱の状態がどれほど多くの人々に塗炭の苦しみを与え貴重な伝統文化を破壊し、心までも荒廃させたかということを、彼らはしっかりと認識していたからである。その認識が260余年にわたる幕藩体制を築き上げる原動力になった。世界に例をみない泰平の世は、さまざまな分野の芸術文化を高め、日本人の心を豊かに育んだのである。
 その礎を築いた徳川家康(1542〜1616)は、風流や趣味のためではなく、国を治める理論や倫理としての学問を重んじた。唐の太宗と群臣との政治論議を編集した『貞観政要』などに着目し、治国安民を理想とする主旨から政治上のヒントを得ようと努めた。治道の規範として政治家の必読書とされたこともあり、執政に関わる者たちにも読むことを勧めた。したがって家康は学者を大切にした。なかでも林羅山の信奉する朱子学を採り入れ、これを育成する土台をつくった。朱子学は社会秩序を固定的な、自然的なものと考えるところに特徴があり、宇宙の原理を論じ、階級の必要性も説いた学問である。この教義は現代には当てはめることは出来ないが、天下を掌握した家康にとって、これは都合の良い教えであった。羅山は将軍の顧問として徳川四代の長きに仕え、幕府の典礼と文化を重んじる礼文政治をかたちづくることに貢献した。
 体制強化の牆壁としての朱子学は、結果的に学問を普及させ朝野に多くの知識人を輩出した。この知識人こそ、幕末から明治維新の黎明期において、西欧文化を適切に消化し、日本の近代化を進める原動力となった。
 家康は生涯ただ一度の大敗を喫した。武田信玄が元亀3年(1572)冬、3万の大軍を率いて遠江(静岡県西部)へ侵入した時である。家康は織田信長から籠城するように言われていたが、武将としての誇りが許さなかった。果敢に城から打って出て大敗を喫した。浜松の城へ逃げ帰った家康は家臣の鳥居元忠に城の城門を開け放たせ、多数のかがり火を焚かせた。追ってきた武田勢はあまりの大胆な振る舞いに用心して引き上げた。ここで家康は生涯最大の危機を脱出したのである。その翌年信玄の陣没を聞いた家康は、「惜しい武人を亡くしたものだ。わしは前から信玄の軍法を学ぼうと心がけていたので、かけがえのない軍師を失った思いだ。同じ天を抱かぬ敵ではあったが、誉れ高い武将の死は心傷む思いだ。隣国に信玄がいたればこそ、わしは武技兵法に励んだのだ。もうすこし長生きして欲しかったものだ」と哀悼の意を表した。
 天目山の戦いで信玄の子勝頼が滅ぼされ、その首が信長のもとで実検された。信長はその首に向かい「信玄が非道であったのでお前もこのような無様な姿になったのだ。信玄はお前に一度は京へのぼれと遺言したそうだが、思い通りに京へおくり、女子供の前で、さらし首にしてやろう」と憎しみを込めた罵声をあびせ、家康の陣へ回した。
 家康は床机に腰掛けていたがすくっと立ち上がり、「若気のゆえにあたら命を落とされたか、安らかに成仏されよ」と首桶に向かって合掌した。信長の厳しい残党狩りが始まるとひそかに、甲州兵を領内に隠し入れ捨て扶持を与えた。こうして召し抱えた落武者を前に、家康は「勝頼は父を嗣ぐ器量を持ち合わせていなかった。わしは信玄を父と仰いでその軍法を受け継いでわが兵法としよう。お前たちもわしを信玄の子だと思って武田家にいたときと同じようにわしに仕えて励んで欲しい」と諭した。武田の遺臣はみな感激し家康に心服したのである。
 幼くして人質となり苦労に苦労を重ねて天下人になった家康ならではの逸話である。その家康の遺訓は、いまに通じる味わい深いものを感じるこの頃である。
家康が残した遺訓
1 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
(人の一生は遠い道のりを重い荷物を背負って歩き続けるようなものだ。いつもたゆまぬ努力と忍耐を忘れてはいけない。)
2 不自由を常と思えば不足なし。
(不自由を当たり前なことだと考えればなにも不足だと思うことはない。)
3 心に望み起らば困窮したる時を思いだすべし。
(何かを欲しいと思った時は、貧しく生活に困った当時のことを思い出しなさい。)
4 堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。
(我慢することは、穏やかな生活が永く続く基礎である。怒ることは自分にとって何も得ることがない。)
5 己を責めて人を責むるな。
(自分を責めても人を責めてはいけない。)