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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
「日本の国のかたちーパート3ー鎮守の杜と日本人の心の原風景1」
2012 年4月25日


 

 四海を海に囲まれ、地震、台風の自然災害に度々見舞われた日本人はそれを克服しながら粘り強い国民性を涵養し、歴史や芸術・文化を時間をかけて熟成することができました。 さらに四季の存在は、豊かな感性を育み、日本語を語彙豊かにし、優れた日本文学も育んできたのです。
 古くから魚を食べてきた日本人は、魚のはらわたの独特の苦さを通して世界で最高の味覚の持ち主になったように、四季の存在は、日本人の豊かで繊細な感性を育む上において大きな役割を果たしてきました。
 日本には古くから自然物や自然現象を神格化した八百万の神が存在しました。日本は自然に恵まれた国で、狩猟や採集経済の時代「山」それはイコール「森」であり、森は食料の供給源でもありました。また日本は火山の国です。静かな山が突然爆発を起こし、山の姿を一変させたり、周囲のものを焼き尽くす溶岩の流れは人の力を超えたもので、そこに人々は神の姿を見たのです。同じように、雷・雲・雨・霧・風雪などの気象現象は生活と大きな関わりがあり、この気象現象と密接な関係にある自然物、山や河川、湖沼、巨岩、温泉などが神聖な場所となり、山は畏怖の念と尊敬の念とが混合した自然崇拝の原始宗教として人々のなかへ定着していったのです。
 古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取ったのです。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。古代人はこれを神々しい「何か」の祟りと考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになっていきました。これが後に「神」と呼ばれるようになりました。
 原始宗教が変化して行くのは、大陸から稲作が伝わってからです。稲作の伝播は狩猟や漁労など採集を中心とした縄文時代から稲づくりを中心とする弥生時代へと移行させました。米づくりの技術や鉄器ももたらしましたが、それと同時に新しい技術や習慣も持ち込まれました。
 稲作りは水が不可欠です。そこで川沿いに水田が拓かれていきました。それは従来の自然の恵みを受ける“狩猟・採取”から、人が土地を作り、稲を植え、水をかけるという、自然に対して働きかけるというように、受動から能動への大きな変化をもたらしました。
 収穫の良し悪しは気象条件に左右され、時には人知を超えた自然の圧倒的な力に支配されます。
 弥生時代の自然崇拝は、縄文の自然崇拝の形を受け継ぎながらも、農耕儀礼を中心とした自然崇拝へと変化していったのです。
 巨岩・奇岩、巨木、老木などが気象現象や動植物との関わりあいで大きな力があると信じられ信仰の対象となりました。これが後には神が巨大な樹木や神木に降臨するという信仰に結びついていくのです。
 弥生時代の自然崇拝は、稲作儀礼を中心としたものでありますが、大和朝廷の成立を契機に大きく変化していきます。
 それは「天に住む神々を崇拝し、自らは天から下ってきた神々の子孫であるから、天上の神々の命令にもとづいてこの国を統治するもの」という「天孫降臨」の考えです。
 それはこれまでの自然崇拝と違って国家や支配という考え方が色濃く滲んでいます。
 「天には神々が住む高天原があり、地上がこの世のナカツクニで、地下には死者の住むヨミノクニがある」という考え方です。
 自然崇拝では、山そのものが神でしたが、天孫降臨説になると、山は神の住家や天への通路とする考え方に変わり、神道への萌芽が現れます。これが「天孫降臨説」と融合し、国家神道や皇国史観と結びついて行きますが、日本人の心の中には同時に縄文時代からの心が脈脈と引き継がれてきたのです。
 日本における今日の伝統的な生活の大部分の原理を生み出したのは稲作です。稲作とは無縁な人たちの多い今日でも祭や、年中行事をはじめとするさまざまな儀礼においても形を変えながら稲作を基盤に生み出された信仰や呪術を継承しているのではないでしょうか。
 農業は技術の集積からなる、極めて科学的な生業であると同時に、超自然的なものあるいは呪術に依存する側面を合わせ持っています。この種の生業の結果が人間業では推測できないところに出現するものであることを物語っています。より優れたものを求めるために、あるいは自然からのマイナスの影響を極力受けないように、さまざまな工夫がなされてきました。信仰や呪術の面においても細やかな対応がなされたのです。
(これは、多賀城史跡案内サークル会報『いしぶみ』編集責任者 大山真由美に連載したものです。)