倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣山隠(ごも)れる 倭しうるはし (中略)愛(は)しけやし 我家(わぎへ)の 方よ 雲居立ち来も 『古事記』
(解釈 大和は日本中で最も優れた真秀(まほ)の国だ。重なり合う青い垣のような山々に囲まれた大和は実に美しい。ああ懐かしい我が家の方から雲がわき起こってくるなあ。(引用『名言で読む日本史人物伝』学研)
『古事記』の一節である。全国各地を遠征した日本武尊が、遠征先の三重県鈴鹿市で亡くなるとき、ふるさとをしのんで詠んだ歌である。
大和(奈良県)に限らず日本中はどこも「素晴らしい場所」「住みやすい場所」いいかえればまほろばの国である。東日本大震災で、特に福島、宮城、岩手を中心とした太平洋側の景勝地が大きな打撃を受けた。加えて為政者の無為無策や東京電力の相次ぐ不手際によって原発事故は終息の目途は立っていない。
しかし振り返ってみれば日本人はさまざまな困難を克服しながら今日を築き上げてきたのである。太平洋戦争では日本は数百万の犠牲者を出し、東京空襲や広島・長崎の原爆投下等で都市部は壊滅的な打撃を受け、人心は荒廃した。しかしひたむきな努力によって奇跡的な復興を成し遂げた。関東大震災でも東京は大きな打撃を受けたが見事に再生した。明治時代も相次ぐ冷害や地震・津波に襲われながらもそれを克服してきた。
二四〇年前の天明の飢饉時には仙台藩では二〇万人以上の餓死者を出し、人口は三分の二になる大打撃を受けた。その五〇年後、一八三三年から始まる天保の飢饉から一八六七年(慶応三)までの三五年間に仙台藩では二九回の凶作に見舞われ、凶作でなかった年は六回だけである。減収の年平均は五八万八千石、九一万石の減収という年もあった。このような過去を振り返るとむしろ戦後のいままでが例外といえるのではないだろうか。
私は国土交通省の二つの学識者懇談会の委員を委嘱されている関係で、被災地を見て回る機会も多い。水清く緑美しかった三陸海岸や、広大な山元や亘理や名取の荒れ果てた田園を見るにつけ心が痛む思いがする。私の住んでいる登米市登米町は南三陸町に隣接しているため、緊急避難施設や遺体収容施設などが置かれ、また自衛隊や警察の人たちの宿泊拠点にもなっていた。
震災の初期の頃の、悲惨な光景はいまでも忘れることが出来ない。明らかに徒歩で目的地へ向かっている人たちを数多く見た。一人は大船渡の娘の卒業式に行くため新幹線で地震に遭い仙台駅で降ろされたそうである。徒歩で登米にたどり着いたのである。家族の安否も分からずただひたすら歩いてきたのである。私の車にはガソリンはほとんど無かったが出来るだけ近くまで送った。「頑張ってください。ご家族はきっと無事ですよ」と言って励ましたけれど一〇〇キロ以上離れた大船渡で無事に家族に会えたろうか。旅姿で登米大橋を歩いている人を見かけた。「どちらへ行かれるのですか」。「石巻です。女川町出身で大船渡に勤務しており被災しました。妻も女川出身で石巻の銀行にパートで働いていますが、携帯での連絡が取れずバイクで東山(岩手県)まで来ましたが、ガソリンがなくなり歩いて来ました」。果物やお菓子をあげて車で途中まで送った。やはり私の車にはガソリンがなかった。いまでもその人達はどうなったかと思い出す。終戦直後のような光景を目にするとは思わなかった。
大川小学校を見た。慰霊碑の前で若い女性が一人で碑に向かって深々と頭を下げ何時までもただずんでいた。彼女の脳裏にはどのようなことが去来しているのだろうか。
山の中腹に綺麗な着物や帯が木の枝に引っかかり風を受けて揺れていた。下にはたくさんの生活のあとをうかがい知れるものが散乱していた。とかく公務員は批判される風潮が社会には満ちているが、担当している国土交通省の人たちは睡眠を十分とっているのだろうかとさえ考えてしまう。いわんや自衛隊、警察官の人たちは、悪条件の中で被災地の救援のため頑張っている。彼らを支えているのは、日本人ならではのひたむきな崇高な使命感ではないだろうか。
いま私たちに求められているのは、先人がさまざまな困難に果敢に立ち向かいながらさらにそれをしのぐ歴史や文化を築き上げたことに思いをいたし、自信と誇りをもって一歩一歩新しい時代を築いていく気概と勇気ではないだろうか。
(これは、多賀城史跡案内サークル会報『いしぶみ』編集責任者 大山真由美に連載したものです。)
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