文学には国境がないといわれていますが、作家の生まれた環境は作風に大きな影響を与え、必然的に風土性もでてくるようです。東北六県といっても、歴史や自然環境にも自ずから差異があります。それぞれの県の文学風土の概略を、辿ってみたいと思います。
東北新幹線に乗って陸奥に入ると、最初に新白河駅に着きます。白河には「庄司戻しの桜」があります。1180年(治承4)奥州信夫里の佐藤庄司元治の子継信・忠信兄弟は、源義経が平泉を出立する時、藤原秀衡の命で義経の家臣となり、終生義経の家来として忠節を尽くしました。平家物語によると屋島の合戦の折、継信は義経めがけて飛んできた矢の前に立ちはだかって矢を受けますが、このとき継信は「主の命に代わって討たれたと、末代までの物語とされるのは今生の面目、冥土の土産」と語って息を引き取りました。
この桜は佐藤元治が、義経に従って息子たちを白河関まで見送り別れるとき「息子が君に忠ならば生きよ、不忠ならば枯れよ」と言って桜を地面に突き立て、この桜はみごとに花を開いたといいます。二人の事績は『平家物語』や『義経記』のほか、吉野山でのことをテーマとする謡曲『忠信』、二人の母が山伏姿で陸奥へ下る義経主従をその館で接待し弁慶が継信の最期を語る謡曲『摂待』などに作品化されています。継信・忠信の墓は京都の東山のほか、福島市飯坂町の佐藤一族の菩提寺医王寺にあります。
白河を過ぎさらに北上すると、安積香山、安達太良山、会津嶺(磐梯山)など万葉の時代から人びとを引きつけてやまない秀峰が眺望できます。
・越河の畦みな細き植田かな 原田 青児
磐梯山麓の摺上原は1589年(天正17)、伊達勢と葦名勢が激突、勝利した政宗は、会津黒川城に入城。しかし、豊臣秀吉の奥羽仕置によって会津黒川城を没収され、蒲生氏郷が九十二万石で入城、会津若松城と改め殖産興業などこの国の基盤作りに大きな足跡を残しました。1592年(文禄1)千利休は秀吉の勘気に触れ切腹を命じられますが、このとき氏郷は利休の娘婿少庵を会津若松にひそかに迎えました。1594年(文禄3)秀吉の上意による「召出」によって、少庵は千家の相続者として京に戻り、千家の再興がはかられました。氏郷は、1592年上洛し、秀吉に従って肥前名護屋に赴き、翌年帰国しますが、若松城の完成をみて間もない1595年(文禄4)、伏見の自邸で四十年の波乱に満ちた生涯を閉じました。
・限りあれば吹かねど花は散るものを
心みじかき春の山風 蒲生氏郷
その後、会津若松は上杉、加藤氏と続きますがいずれも悲劇的にこの地を去り、名君の誉れ高い保科正之が入城、以来九代の歴史を積み重ねます。しかし幕末維新には再び悲劇が繰り返されました。白虎隊で知られる会津戊辰の役で、多くの悲劇を生み文学の作品にもとりあげられています。
・磐梯の弥六の沼の遅桜 遠藤 悟逸
磐梯山の麓には猪苗代湖が広がり、野口英世はこの湖畔の寒村で生まれました。人間発電機と評されたひたむきな研究と努力と行動は、彼の貧しく悲しい生い立ちもさることながら、深い雪国に育まれたみちのくの忍耐、それから抜け出そうとする風土性によるものかもしれません。