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みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
朴澤三代治伝出版
2016年1月24日


 


 
 平成27年11月は,朴沢学園の創始者・朴澤三代治先生が亡くなられてから120年の節目の年に当たる。
 三代治先生は幕末から明治へと激しく移り変わる時代の変化に対応しながら,裁縫教育を通して近代日本女性の地位向上のため大きな足跡を残された。実学を重んじながら創意工夫を重ねられ明治政府の国家的な課題の一つである女子の就学率の向上のため尽力された。一度に多くの生徒を教えるのは上可能と考えられていた裁縫教育に,自ら工夫を重ねらて作成された掛図を使用しての教授法は大きな効果を上げ,全国各地から注目され多くの生徒たちがこの学校で学び,裾野は全国に広がり,女子の就学率の向上にそして女性の地位向上に大きな役割を果たされたのである。
 二代三代治先生は,初代三代治先生の志を正しく継承し,学校の基盤の確立に尽力され,全国各地から多くの研修生も受け入れた。二代三代治夫人ひろ先生は高等教育機関になるため,さらなる努力を尽くされその夢を実現された。子息三二先生は旧東北帝国大学の教授をしながら,校長を兼務し更なる質の向上を図ったが日本は戦争に突入し,大切な教え子たちが学徒動員にかりだされた。昭和20年7月の仙台空襲で学校は灰燼に帰した。焼け跡の呆然と立ち尽くした胸に去来したものはどんな思いだったのだろうか。
 三二校長は夫人綾子とともにゼロからのスタートを切ったが,心労のため昭和22年死去した。五代校長綾子は歴代校長の意思を引き継ぎ,明成高等学校,仙台大学の礎を築いた。
 私は平成21年4月から、仙台大学の客員教授として歴史講座を担当しているが、母体となっている朴沢学園が素晴らしい歴史をもちながらも、戦後の普通教育重視の中で忘れられがちな朴沢学園の素晴らしい歴史を知りことができ、何とかしたいという思いがあった。5年ほど前同じ思いを持っていた三人で結成した「朴沢学園裁縫教育資料調査研究プロジェクトチーム《メンバーの齋藤敬さんと田中慶子さんと連れ立って朴澤家の先祖の墓のある興禅院を訪れた。楚々としたたたずまいの中に、三代治先生のご生家の代々のお墓がきちんと整備されており、これを守られてきたご子孫の矜持を感じた。田中さんはこれらの墓の文字を解読し、お墓の配置図を作った。この地が鎌倉、室町、安土桃山、江戸時代と連綿と続いてきた朴澤家ゆかりの地なのだ。  その後私は、何度か訪れご住職から直系のご子孫が仙台市内にいることをお聞きし、電話番号を教えていただいた。思い切ってご子孫の由雄様に電話をした。いろいろお話しているうちに、「代々伊達家からいただいた文書は大切に保管してあります。いつか遊びにいらっしゃい《というお話があり間髪をいれずお宅にお伺いした。
 迷わないようにというお心遣いから、道に立っておられた。古武士風の毅然とした方であった。部屋に案内されお茶のもてなしを受けた後、大きな箱を持ってこられた。そして「これが代々伊達家から拝領した文書です《と文書を机に並べられた。このような貴重な資料が大切に守られてきた家があったのだ。写真を撮らせていただいた。その時「この文書はどのようにしたらいいのでしょうね《とのご相談を受けた。すぐに仙台市博物館の菅野正道仙台市史編纂室長に写真を持参した。博物館の対応は早かった。菅野室長と倉橋真紀学芸員を案内し由雄氏宅で写真撮影をし、これら貴重な資料は一括博物館に管理委託することが決まった。  博物館からいただいたデータをもとに古文書の解読はまず仙台大学の太田四郎教授に助力をお願いし、解読上明な部分は菅野・倉橋両氏のお力添えをいただいた。先に整理した『朴澤学園公文書資料集』一三巻、その他『東藩史稿』『伊達世臣家譜』『仙台藩家臣録』『日本教育資料』『仙台先哲偉人録』『郷土人物号』『静堂夜話』などを読んでいくうちに、朴澤家や三代治先生のことが頭の中で整理することが出来た。
 以前から朴沢学園関係の資料を整理されておきたいとの理事長のお考えは承知をしていたので、まず『朴澤三代治伝』の執筆に取りかかり、上梓することができた。
 執筆に当たっては、朴澤由雄様、仙台市博物館仙台市史編纂室長菅野正道様、倉橋真紀様、元仙台市博物館長佐藤憲一様、前仙台市史編纂室長鵜飼幸子様、元宮城県上沼高等学校校長・齋藤隆様・弘子様、仙台大学太田四郎教授、朴沢学園齋藤敬様、田中慶子様、そしてお身内では書けないない得難いメモを書いて下さった故矢作順子様に心から御礼を申し上げる。