弔辞
広き野を流れゆけども最上川 海に入るまで濁らざりけり 昭和天皇
このお歌は、大正十四年山形県を訪れた後の昭和天皇が詠まれたお歌で、先生のお生まれになった大正十五年の歌会の時発表されたものです。雄大な最上川がゆっくりと流れ川の水が澄み通っていることに感銘を受けた天皇が、最上川の様子を力強く歌い、文言の響きが鮮烈な格調の高い一首で山形県民の歌であります。先生のご生涯を三十一文字で表すに相応しいお歌ではないでしょうか。
広き野を流れゆけども最上川 海に入るまで濁らざりけり 昭和天皇
雪解け水が大地を潤し、生きとし生けるものに新しい命の息吹を与え、森羅万象躍動する季節を迎えた今、先生にお別れの言葉を申し上げなければならないこと、悲しく淋しい気持ちで一杯でございます。
先生との出会いは、二十数年前仙台で開催された「アジア少年少女愛と夢のコンサート《の時、主催された詩人の星乃ミミナ様からご紹介いただいたのがご縁でありました。振り返ってみれば、もう二十年以上の歳月が経過をしていること万感の思いで一杯です。
先生ご夫妻をはじめ、お嬢様のゆかり様ご夫妻・お孫さまとも親しくお付き合いをさせていただいてまいりました。ミミナ様が企画された様々なコンサートや懇親の場を通して、先生の清廉潔白、高潔なご人格に触れることが出来、私にとっては先生との出会いは、まさに「新鮮な衝撃《でありました。
先生は何時も泰然自若とされ、私どもを温かく見守ってくださいました。どんなことがあっても何時も穏やかに私どもに接し、生きるお姿を通していろいろなことをご教示いただきました。先生は日本人が失いつつある人としての生き方を体現されておられたのではないでしょうか。
先生は何時も接する人と同じ目線でお話をされておられました。医は仁術という言葉がありますが、医術は単なる技術ではなく、人を救う道であるという意味だろうと思いますが、まさに先生に相応しい言葉と何時も感じておりました。
先生はいろいろな形で多くの人たちを救い、夢と希望を与えてこられたのではないでしょうか。
さて日本の近代化に大きな役割を果たした明治天皇は、九万首を超える歌を残されております。天子として語れぬ胸の内を歌に託したものだろうと思いますが、次のような歌も残されております。
天を恨み人をとがむることもあらじ 我が過ちを思いかえさば
どうして天を恨んだり、人を叱ったりすることができようか。自分の至らなさを振り返って見れば。
また、次のような歌も残されております。
あさみどり澄み渡りたる大空の 広きをおのが心ともなが
凪いだ湖の面のように何時も穏やかな広い心得を持った自分でありたいというお心内を詠まれた歌であります。
先生の生き方には、明治天皇と同じような心意気を感じてなりません。
何度も「季館《を訪れ、先生の仕事場でのお姿を拝見いたしてまいりましたが、先生がその場におられるだけで、入所されている皆様は安心されていたのではないでしょうか。入所されている皆様との会話、職員の皆様との交流には、見習うべきもの多々ございました。
季館は単なる介護施設ではなく、入所されている皆様に寄り添った施設として、芸術・文化の振興にも力を尽くされ、いながらにして一流の芸術、文化に何時でも触れ合うことの出来る高雅な雰囲気を持った場所でもありました。入所者の皆様はもちろん、ここを訪れた皆様もほっとした心豊かな一時を過ごされたのではないでしょうか。
ここにも先生ならではの高邁な理念を感じていた次第であります。まさに先生が目指された『ヒポクラテスの精神』を正しく貫かれたご生涯であったと拝察いたしております。
先生が病を得られてから長い間、愛子先生をはじめご家族の皆様の献身的なご看護を目の当たりに見てまいりました。先生もご希望通りご自宅でご家族に温かく見守られ、窓の外に見える緑豊かな風景を楽しまれながら、一日一日を心豊かに大切に刻まれ、先生がこよなく愛した大自然の懐に帰って行かれたとお聞きいたしました。
ご遺族の皆様におかれましても、先生の温かいご加護を賜り、幸多いことお祈り申し上げます。
先生、ご苦労様でした。そして有り難うございました。先生がこよなく愛した大自然の懐に抱かれることお祈りし、万感の思いを込めて永遠のお別れの言葉と致します。
平成二十九年四月三十日 伊達宗弘
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