新幹線は、ひときは大きな市街地に入ってきます。1601年(慶長6)伊達政宗が岩出山から入城して以来、伊達六十二万石の城下町として栄えた場所です。著名な宮城野、つつじが岡が所在し、秀歌、秀句も詠まれてきました。
・宮城野に妻よぶ鹿ぞさけぶなる
もとあらの萩に露や寒けき 藤原長能
・宮城野の萩食ひさかる軍馬かな 高浜虚子
萩や鹿を素材とした和歌も数多く残されており、宮城の県花、県獣として親しまれています。またこの宮城野は失恋など相次ぐ挫折に直面した島崎藤村がそれを振り切るため、東北学院の作文と英語の教師として赴任、夕暮れ時ともなると、遠く潮騒の音を聞きながらたたずんだところです。相次ぐ不幸に危えながら、鬱屈の果てにほとばしるように謳い上げたのが、『若菜集』の一節・草枕です。
心の宿の宮城野よ乱れて熟き吾が身には
日影も薄く草枯れて荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は吹く北風を琴と聞き
悲しみ深き吾目には色彩なき石も花と見き 『若菜集』より
同時期に土井晩翠は同じ仙台で「星落秋風五丈原」で知られる『天地有情』を高らかに謳い上げました。
学都として知られている仙台は多くの俊秀を育てました。日本最初の本格的な国語辞典『言海』の著者大槻文彦、わが国初めての本格的英語辞典『熟語本位英和中辞典』で知られる斎藤秀三郎、近代短歌結社の初めとされる浅香杜を起こし歌文革新運動で知られる落合直文、東京「中村屋」の開業者でインド独立運動のビハリ・ボースを援助した相馬黒光、わが国自然主義文学の代表者真山青果、長く第二高等学校長を務め後進の育成に情熱を注いだ阿刀田令造、赤痢菌の発見者である志賀潔、『暗夜行路』など数々の名作を残した志賀直哉、大正期の閏秀歌人原阿佐緒らです。また多くの俊秀が集い文化の向上に寄与しました。強力な磁石鋼KS鋼で知られる本田光太郎、東北学院を創始・発展させた押川方義・シュネーダー、『三太郎の日記』の著者阿部次郎、夏目漱石や芭蕉の研究で知られる小宮豊隆、詩や戯曲に華麗な活動を展開した木下杢太郎、文法の研究に大きな足跡を残した『日本文法論』の著者山田孝雄、古代東西文学の比較研究によって国際的に知られる土居光知らが教育者として若い世代の心を豊かに耕しました。
こういう環境の中で『狂人日記』、『阿Q正伝』で知られる中国の文学者魯迅が、若い頃医学を学ぶために仙台に留学しています。このように多くの俊秀が青葉城下に集まり、青春の若い心を豊かに養つていきました。
新幹線はさらに秀麗な七つ森を跳めながら北上し、古川駅に近づきます。見渡す限り広がる水田は大崎耕土と呼ばれ、米の主産地です。市内には、『後拾遺和歌集』の藤原道雅の和歌で知られる緒絶の橋があります。
・みちのくの緒絶の橋やこれならん
ふみみふまずみ心まどわす
またここは、民本主義を唱え大正デモクラシーに多大な影響を与えた吉野作造(1878〜1933)の生誕地です。作造は、組合協会派に属するキリスト教牧師で元同志社大学総長・海老名弾正門下のクリスチャンです。東京帝国大学を卒業したあと、東大教授として政治史・政治学を講ずる一方、『中央公論』を足場に政治論文を発表します。大正デモクラシーに大きな影響を与えることになった民本主義は、主権在民を意味する民主主義とは異なり、主権者は民衆の利益・幸福を政治目的にし、政策決定には民衆の意向を考慮すべきとする、当時としては最も進歩的な民主主義思想であり、政党内閣制・普通選挙を根拠づけるものでした。
新幹線は栗駒山の美しい山並みが眺望することのできる場所にさしかかってきます。この辺り一帯は野鳥の楽園で知られる伊豆沼・内沼をはじめ豊かな水辺が広がっています。水清く、緑豊かな宮城の自然は豊かな文学風土を育んできました。
・みちのくの栗駒山のゝの木の
枕はあれど君が手枕
人 麿
・ふる里を人に語らむ栗原や
姉歯の松の鶯のこゑ 鴨長明