台湾への旅 パート1
まさか台湾に公務で行けるとは思わなかった。晴天の霹靂である。振り返って見れば海外渡航の経験は宮城県職員時代、3度経験した。1回目は広報課にいた時、宮城県第7回成年の船の事務局員(カメマン)として参加した。第2回目は議会事務局の議長秘書係長の時、北方領土返還の陳情団の随員としてホワイトハウス、ペンタゴン、国連本部などを回った。3回目は文化振興課長の時、中国吉林省と宮城県の交換美術展の開催の時である。 もう海外の旅行はないだろうとパスポートなどの更新はしなかった。そんな時、9月初旬に理事長から突如台湾への旅行を打診された。用件は昨年仙台大学開学50周年記念の時、シンボルマークを台東大学(美術領域専攻)からの留学生で現在は台湾の首都台北でデザイナーの仕事をしている余亭儀さんがデザインしたものが採用された。式典には余亭儀さんは出席できなかったが、理事長は直接本人に会ってお礼を述べ感謝状と作成した品々を、彼女に直接手渡されたかったのだろう。同行を求められたご配慮と感謝をしている。
実は彼女は仙台大学に留学中私の歴史講座を受講していた。私の娘と同い年だったことから親近感もあり、また彼女も私に良く親しんでくれた。土曜や日曜など山寺や平泉や蔵王、阿武隈の川下り、松島などいろいろなところに連れて歩いた。私と妻は娘のように慈しんだ。何度か登米の家にも泊まりに来たが、台所で手伝っている姿はまさに娘の姿と重なった。昭和40年代の古きよき時代の日本女性を見ているような感じの女子学生であった。日本の手話や茶道、歴史や文化にも精通していた。妙に気持ちが通じた。日本の吊前が欲しいと言われ伊達晴子という吊前を贈った。私にとっては養女である。台湾に戻ってからもメールや郵便での交流が続いた。
そんなことを理事長は承知で台湾行きをお話しされたものと思う。元公務員の常として私の速やかに対応した。実現するかどうかは別にしてすぐパスポートを申請した。地元の県事務所では若干遅れるということでそのまま県庁に向かいパスポートを取得した。
理事長から再度お話があった時「英語も中国語も話せないので足手まといになるのでは《と話したら「大丈夫、台湾は日本語で通じるから《といわれ、具体の準備を始めた。
息子が心配そうな顔をして、台湾関係の本や旅行の参考になる本を準備してくれ、また私の整理に悪さを心配してひとつひとつ丁寧に解説書を準備をしてくれた。パスポートもお金もみな紐で結び体と分離しないようにしてくれた。
上安と期待を胸に2018年9月18日から21の3泊4日の台湾への旅はこのようにしてスタートした。行きは事業戦略室担当課長の関場孝夫さんであった。泰然自若とした風貌には安心感があった。羽田空港で落ち合い、13時20分の ANAで羽田をフライト、台北(松山空港)へ向かった。
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