岩手は、八百年以上前、皆金色の藤原氏が栄華を極めた場所です。栄華絶頂の平泉を訪れた西行は、
・聞きもせず束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは
と詠みました。その五五〇年後に訪れた松尾芭蕉は、平泉の失われた栄光への哀惜を、
・夏草や兵どもが夢の跡
・五月雨の降りのこしてや光堂
という句に託しました。また、多くの人々が訪れ優れた名歌、秀句を残しています。
・旅をはる遅日の窓に衣川
原田 青児
高野長英(1804〜50)は、水沢市(旧仙台藩)の出身で、江戸に遊学して蘭方医学を学び、またオランダ語にも卓越し、シーボルトの日本研究に大きく貢献しました。渡辺崋山らと尚歯会を組織して時事を論じ、『夢物語』で幕府の鎖国政策を厳しく批判、蛮社の獄に連座し、自害しました。先見性を持った人で多数の著訳を残しています。
新渡戸稲造(1862〜1933)は、盛岡市生まれ。札幌農学校卒業後、アメリカ、ドイツに留学し、京大教授、一高校長などを経て国際連盟事務局次長として活躍。アメリカ人メリーを夫人に迎え、敬虔なクリスチャンとしてカナダで病没しました。代表作『武士道』は日本文化論で、各国で訳され当時の日本人のアイデンティティを理解させるのに貢献しました。『修養』『農業本論』などを著しました。
石川啄木(1886〜1912)は、玉山村常光寺の住職の子として生まれ盛岡中学で文学活動に影響され、文学をもって身を立てるべく上京しましたが翌年、病を得て帰郷、与謝野鉄幹の指導を受け号を授けられ詩作に専念しました。口語を交えた三行書きで生活感情を豊かに表現しました。死後二カ月を経て刊行された『悲しき玩具』は処女詩集『一握の砂』とともに、日本人の生活感情を最も相応しい言葉と形式で歌った作品として、大正以後の歌壇に大きな影響を与えました。
・やわらかに柳あおめる北上の
岸辺眼に見ゆ泣けとごとくに
啄 木
・故里の春日の丘にかたくりの
むれ咲く頃のなつかしきかな 同