お別れの言葉
さまざまにあはれを込めて梢吹く
風に秋知るみ山辺の里 西行
秋も深まった本日、養雲寺総代長横山寛二郎先生にお別れの言葉を申し上げねばならないのは、私の大きな悲しみであり、心から哀悼の意を表するものであります。
先生とは長い間いろいろなかたちでお付き合いをさせていただいておりましたが、特にこの二十年は濃密なお付き合いをさせていただき、いろいろ得ることも多くたくさんのことを学ばせていただきまた思い出をつくっていただきました。
平成十二年一月、お寺を実質的に取り仕切っておられた庵主様が亡くなられ、当時北海道を拠点にお仕事をされていたご住職から一月二十二日付で高齢・遠隔などの一身上のご都合から辞任届が提出されました。 当時、お寺はいろいろな課題を抱えておりました。当時副住職はまだ若くて、どのような問題が出てくるかもわからないということで代表役員・ご住職には佐沼、松栄寺の市村様に、責任役員として石森の安永寺の清野ご住職にお願いし危機管理態勢を固めました。
当時の大きな課題は、養雲寺の本堂屋根の痛みが激しくなっており、当時予想されていた宮城沖地震が来たら、本堂は倒壊するだろうということで、早急な改修工事が迫られていました。何度も何度も総代・世話人の合同会議が開かれ、お寺を支える組織として護持会を結成、また養雲寺伽藍建設委員会を結成し、まず檀・信徒から財施拠出を依頼し第一歩を踏み出しました。
委員長は当時総代長の菊田仁先生でしたが、横山先生は実行部隊長として持てるお力を存分に発揮していただきました。硬軟を使い分けながら最終的には先生のお考えになった方向へ導かれたのではないでしょうか。本堂・庫裏の大改修工事も無事終了しましたが、あの時大改修を行っていなければ、十年前の東日本大震災で見るも無残な状態になってしまったかもしれません。
先生には硬軟を使い分けながら、養雲寺伽藍・庫裏の建設に多大なご貢献を頂きました。改めて感謝を申し上げます。
楽しい思い出の一つは、平成十六年(二〇〇四)登米開府四百年を迎え、その記念事業を行うため「登米開府四百年記念実行委員会《が結成されました。横山先生はその委員会の中心メンバーで、事業の一環として冊子『先人を讃えてーとよま四百年の歩み―』『荒れ野を拓く―伊達相模宗直物語―』、また紙芝居『荒れ野を拓く』などを作成しました。夜遅くまで、先生の離れの秘密基地二階の一室で皆真剣に原稿の文章整理や校正をしましたことは、楽しい思い出として鮮明に脳裏に焼き付いています。
また体育館で展示会なども行われましたが、先生は何事にも前向きで、積極果敢に行動されどんどんと新機軸を打ち立てられました。その後ろ姿から多くのことを学ばせていただきました。まさに長い間、教育に携わってこられた教育者の面目躍如たるものを感じました。
ここ数年、床に臥されたとお聞きし、お宅にお伺いするたびにご家族の温かい献身的な看護のご様子を推察しておりました。これからもご家族を温かく見守ってください。
先生は精一杯、人生を全力疾走されたのではないでしょうか。
お別れするのは悲しいことです。淋しい気持ちで一杯です。横山先生本当にお世話になりました。
秋風は遠き草葉をわたるなり
夕日の影は野辺はるかにて 伏見院
横山先生がこよなく愛した、ここ登米の山懐にくるまれて、どうぞ安らかにお休みください。
万感の思いを込めて、お別れを申し上げます。
令和2年11月8日
伊 達 宗 弘。
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