宮沢賢治(1896〜1933)は、花巻市生まれ。盛岡高農を卒業後、法華経に帰依し、農業研究者、農村指導者として地域の発展に寄与する一方、詩、童話に優れた作品を残し、死後それらの研究が進むにつれて高く評価されるようになりました。生前刊行された唯一の童話集『注文の多い料理店』の広告文に、これらの作品を「イーハトヴ童話」と呼び、「イーハトヴは一つの地名である」「実にこれは著者の心象中に、このような情景を持って実在したドリームランドとしての日本岩手県である」と書いています。
賢治の作品は多かれ少なかれ、岩手の風土にねざし、それを反映しています。生前刊行した唯一の詩集『春と修羅』に収められた小岩井農場、岩手山、原体剣舞連、東岩手火山などは、岩手の自然と向き合い、その心に生起する思いを記録した作品です。賢治は岩手の風土から夢を育み、詩人が自然の花鳥・動物・鉱物たちのどよめき・ざわめきと自在に対話し、交流し、喜び、悲しむイーハトヴの世界をつくりだしました。
柳田国男(1875〜1962)は、兵庫県出身で民俗学研究に大きな足跡を残しました。農商務省の官僚でもあった国男は詩文に熱中する文学青年でもありましたが、遠野出身の佐々木喜善(鏡石)と出会い、彼の語る故郷遠野の話に魅了され、遠野三山と呼ばれる早池峰山、六角牛山、石上山に囲まれた秘境遠野に何度も足を運んで纏めたのが『遠野物語』です。そこで語られたオシラサマ、ザシキワラシは永遠に人々に記憶され民族学のふるさと、民族伝承の宝庫遠野が広く世に知られるようになりました。
金田一京助(1882〜1971)は盛岡生まれ。東大教授を歴任しましたが、盛岡中学校では啄木の先輩で生涯啄木と親交がありました。アイヌ語、アイヌ文学の研究に功績を残し、『ユーカラの研究』『国語音韻論』などの著書があります。
野村胡堂(1882〜1963)は、『銭形平次捕物控』などで大衆文学の新生面を拓き、一方「あらえびす」の筆名で『ロマン派の音楽』なども執筆、多彩な活動を展開しました。
そのほか一関市出身の『蘭学階梯』の著者大槻玄沢(仙台藩医)、幕末の仙台藩校養賢堂学頭で開国論者大槻磐渓、子息で国語辞典『言海』の著書大槻文彦、平泉藤原三代の研究に大きな功績を上げた陸前高田市出身の相原友直(仙台藩医)らが知られています。
高村光太郎(1883〜1956)は、空襲で東京本郷の自宅とアトリエを失い花巻市の宮沢賢治の弟の招きで疎開し、自ら望んで山間の雪深い三畳一間の小屋で自炊生活を送り、多くの戦争詩を作ったことへの『自己流謫』の七年間の日々を過ごしました。
・みちのくの花巻町に人ありて
賢治をうみきわれをまねきき
高村光太郎
今東光は、横浜市で生まれましたが1966年(昭和41)から平泉中尊寺貫主を務め金色堂の修復等に多大の貢献をしました。
鈴木彦次郎は、盛岡中学から旧制一高、東大国文科とすすみ、川端康成、横光利一、今東光らと『文芸時代』を創刊、盛岡に疎開中岩手県立図書館長を歴任、岩手日報社による「北の文学」の編集責任者として若い人材の育成に大きく貢献しました。
大正時代平民宰相として活躍した原敬も、優れた数多くの秀句を残しました。
・わけ入りし霞の奥も霞かな
原 敬
岩手県は秀峰岩手山、早池峰山、焼石岳、五葉山や大河北上川によって美しい自然環境を培い、海岸部は壮大な海蝕崖、深く入り込んだ湾、入江を有する陸中海岸です。このような壮大なスケールは、多彩で豊かな文学風土を育んできたのです。