トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
愛犬と散歩しながら胸に去来する思い
2021年7月14日


 

 私はここ10年近く、柴犬・愛犬コロと1時間から1時間30分ぐらい散歩している。少なくとも毎日7~8キロは歩いている。その他を加えると10キロぐらいは歩いているだろう。
 登米に生まれ育ちながら今まで歩いたことのない場所も散策、登米は自然が豊かで他の地域が無造作に失った数多くのものを今に伝えていると感じる事が多い。
 今年のNHK朝ドラ「お帰りモネ《の舞台は気仙沼と登米である。登米は北上川の雄大な流れ、歴史を感じさせる建物や、能をはじめとする伝統文化がきちんと継承されてきた数少ない町の一つである。
 愛犬の散歩のおかげで、今まで知らなかった登米町の隅々まで見る機会を得た。結構豪邸も多いし、風情のある庭のたたずまいも多い。2つのコースで散歩している。山沿い・田園コース、北上川河畔コース、それぞれ趣が異なる。
 400年以上前に掘削された北上川の流れは雄大だ。モネが自転車に乗って通っている道である。北上山地と町並みが融合したまさに日本の原風景ともいえる趣を伝えている。 登米は江戸時代は南部藩、仙台藩の米が石巻に運ばれる中継点として、米の集積地としては栄えた。しかし戊辰戦争に敗れた仙台藩は領地を没収され、登米地方は土浦藩の管轄下に置かれた。刀を捨て帰農すれば土地にとどまることを認められたが、登米を除く他藩はそれを潔しとはしなかった。そのようななかで登米では明治2年6月全員が刀を捨て帰農する道を選択した。
登米最後の館主13代邦教は返還の必要のない百姓付きでない土地8千石文を家臣に配分し、1,400余戸(7,000余人)旧家中全員を土着帰農させた。また、耕地を持たなかった者には山林・原野を与え、自らは一畝の土地も残さなかった。他の地域では士族にこだわり北海道に移住した人々もいたが、登米では自作農として帰農でき、誰一人として移住することなく現在の登米町の基盤を創った。これは邦教の英断がもたらしたもので、病床から家臣一同の将来を案じ、私財を全て投げ出し、全家中の帰農手続きの完了を見届けた邦教は、明治2年(1869)29歳の生涯を閉じた。
 邦教は私の祖父の父である。祖父は父の温もりを知らず育ったのでことさら家族への思いが強かったのではないだろうか。一切のものを捨てることなく今日に伝えてきたのを見るにつけそう思うことが多い。
 コロと散歩しながらさまざまな思いが去来する昨今である。

     令和3年7月14日