私は昭和20年7月31日に生まれた。終戦の2週間ほど前である。それに先立つ3月祖父寧裕(やすひろ)が死去している。祖父を敬愛していた父は、よほど悲しかったのだろう。祖父の部屋をそまま手を付けず保存した。その祖父の使用していた廊下で結ばれた離れの部屋は、私たち姉弟は『お祖父さまの部屋』と呼んだ家族にとっては特別の部屋であった。祖父とは会えなかったが、何時も祖父を身近に育った。
寧裕は明治初期、東京外国語学校を出た後、明治16年外務省から清国への留学をじられ2年間清国に滞在し、さらに明治19年アメリカへ留学した。帰国後は伏見宮貞愛(ふしみみのみやさだなる)親王下の直属通訳官として宮様の側近く仕え日清戦争にも従軍した。しかし兄の死去後、生家が没落していく様を見て母の懇請もあり、青雲の志をたち帰郷、甥たちの後始末に生涯の大半を費やした。これを他山の石として、父の姉弟たちは、学問を大切にし質実剛健に育てられた。
寧裕は縁あって祖母秀子と結婚した。祖母の生家は寛永17年(1640)幕府から世襲制通詞に任じられた家で、祖母の父は長崎県権参事、長崎税関長などを歴任した後、東京へ移住し大蔵書記官、東京海上保険会社取締を歴任した。
そのようなこともあり子供心にも祖父の部屋は、膨大な書籍や珍しいものが一杯詰また神秘的な部屋であった。相応のお客さんが来たとき通す特別な部屋を見ながら、私たち姉弟は創造心を豊かにはぐくみ育った。
屋敷内には、政宗の孫に当たり登米(とよま)伊達家4代宗倫(むねとも)の廟があるが、毎日参拝するのが家族の日課であった。何か困ったことがあるとすぐ廟にお参りし、良いことがあるとお礼参りをした。祖父の部屋は私たちにとっては、心静かに思索する場所であり、創造心を膨らませる所でもあった。
時は流れ瞬く間に昭和、平成そして令和を迎えた。昨年、登米町に懐古館が町の中心部に新装オープンした。これを機会に私の家に残っている品々を懐古館に移管することにしていろいろな整理を始めた。明治から今日までのものはほとんど保存してきたので、膨大な数ではあるが、いろいろな形で地域のために役立って欲しいと考えている。これが長い間お世話になった地域の皆様への、私の家としての報恩の証と考えている。
処分しかねた膨大な手紙類や日常の品々は、それぞれの時代を知るうえで貴重な資料である。時代は大きく変わっている。これらを無造作に次世代に引き継いでいくのは無責であろうと思う。
明治27年内閣に提出した資料をもとに刈田氏、白石氏を経て登米伊達家になる900年の歴史を私の知る限りのことを取りまとめることが、私のに与えられた仕事と考え執筆にとりかかるものである。
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