明治4年の廃藩置県によって、仙台藩は仙台県となり仙台藩の学問所であった養賢堂が県庁舎として使用された。養賢堂は全国でも屈指の藩校で、いまでいえば総合大学のような存在で規模も大きく寄宿生も含め1000人ぐらいが学んでいた。職員は学頭のほか添役、目付、指南統取(各2人)、指南役(6人)、指南見習い(1人)諸生扱(21人)その他で教員が135人、それに事務員が養賢堂取締以下73人、合計して208人前後であった。部屋数も相当あり、郊外にも講武所や造船所も付設していました。学校の維持費として新田開発高1万3千石と有志からの献金と事業収益(硝石で火薬をつくるなど)で運営されていた。
ここが県庁舎として利用されたのは、仙台の中心部に位置し、交通の便からも新しい県の政治を行う場所としては最適でな場所と判断されたと考えられる。明治政府は財施基盤が脆弱なので、既存の施設はできるだけ活用した。また新しい時代になったと意識を変えるために、古い門は取り払われ新しい庁舎の門はペンキを使用した洋風に作られるなど工夫も施された。
養賢堂は江戸時代の各藩が建てた中で唯一和算を教えていた。また、蘭学、ロシア語も教えており、ペリーが来航し日本をつぶさに観察し「ペルリ提督日本遠征記《などを残しているが、養賢堂ではそれを即、翻訳するなどかなり高い水準の藩校であった。
この養賢堂を中心に間もなく県会議事堂が建てられ、警察部が建てられさらに行政需要の高まりの中で大正4年には2階建ての庁舎も建てられるが、養賢堂も使用され続けたと考えられている。そして大正12年(1923)関東大震災に見舞われた。当然、耐火・耐震構造の庁舎の必要性は強く認識されたのではないか。
行政需要の増大、それに伴う機構改革等の理由により、効率的な事務を行うためには庁舎の建て替えは緊急の課題だ。加えて大正2年(1923)の関東大震災を踏まえ耐火・耐震構造の庁舎の建設は必要だった。そのため昭和3年県議会で庁舎建設が可決された。また、庁舎建設事業は、県営電気事業、東北産業博覧会事業と共に昭和初期の上況対策事業でもあり、天皇即位記念事業でもあった。
こうして、レンガ造りの昭和の県庁舎は、昭和4年着工、昭和6年9月竣工、28ヶ月の歳月と、82,000人の労力をかけて完成された。養賢堂はその後も、県庁舎を保管する役割を果たしたと思われ、講堂は昭和17年11月県議会において県民の精神を高揚し修練する場として活用されるが、昭和20年の仙台空襲で消失した。
この建物の設計者は佐藤功一工学博士で、栃木の人で第二高等学校時代藩政時代の仙台の町づくりを賞賛している。その後、東京帝国大学で学び早稲田大学の教授をされた後、建築事務所を開設した。
彼が作った建物には岩手県公会堂(昭2)、早稲田大学大隈講堂(昭2)、群馬県庁(昭3)、旧仙台第二高等学校(昭3)、日比谷公会堂(昭4)栃木県庁舎(昭13)など多くを手がけているが、ルネッサンス様式をこよなく愛し、プロポーションの美しさを大切にすると共に、外装にテラコッタ(陶器や建築用素材などに使われる素焼きの焼き物)を用いるなど、あたたかみのある建築が多いと云われている。 ·
レンガ造りの当時の宮城県庁舎は、近代ルネッサンス様式を加味した近代様式といわれており、ふんだんにそれを取り入れながら、風格、気品を漂わせ温かく働く人、訪れる人に感動を与える建物であった。
私が県庁に入った大きな動機は、小学6年の修学旅行で仙台に行った時レンガ造りの県庁舎を案内された。普段見れないところも案内され、その立派さと風格には子供心に大変大きな衝撃を受けた。『よーし、自分も将来県庁に入ろう』と思ったのを今でも鮮明に覚えている。大学に入ったその年の秋からは本格的に公務員試験の勉強を始め、宮城県庁に入るという夢がかなった。
建物は重厚で4階の大会議室、2階の知事室。最高幹部が会議をする庁議室、議会はみな風格が感じられた。部屋は課ごとに分かれ特に行政の幅が広まり手狭になってきた。そのため西庁舎。北庁舎などが作られて何とか対応していた。
当時、急速にOA化が急速に進んでおり、レンガ造りの手狭になっていた建物の容量ではOA化を取り入れるのは上可能だった。当然新しい時代に対応する建物は必要、現在ある場所に新しい庁舎を建てるのか。別の場所に建てるのか。当然そのような議論の末、レンガ造りの庁舎は解体し、同じ場所に新しい県庁舎が造られることになった。その間、職員は分散していろいろな場所で仕事をした。
当時の机や椅子、調度品は登米町に譲渡され、いまの登米市登米支所に使用されたりまた水沢県庁記念館に一部がまとまりとして展示されている。
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