「この度、神奈川県鎌倉市にある(株)銀の鈴社から「語り継がれる 明治天皇の東北・北海道ご巡幸《を出版しました。序文をお寄せ頂いた皇室ジャーナリストとして知られる久能靖様、銀の鈴社の柴崎俊子(阿見みどり)様、西野真由美様、西野大介様に数々のご教示、ご助言をいただいた。また音楽プロデュサーの故牛山剛先生、詩人の星乃ミミナ様、大崎市古川の齋籐隆・弘子さまにご教示を頂いた。心から感謝申し上げたい。《
「明治9年(1876)6月2日、明治天皇は巡幸中の庶政を太政大臣三条実美に委任して、赤坂の仮皇居をご出発されました。千住まで皇后が見送られ、50日間におよぶ東北巡幸の旅がスタートしたのです。右大臣岩倉具視、内閣顧問木戸孝允、宮内卿徳大寺実則、侍従長東久世通禧ら二百を超えるる人々が供奉しました。この巡幸には新聞関係者の随行も多く人夫などを含めると、多数の人たちが関与した国家的な一大イベントでありました。
近代日本における天皇巡幸は、明治天皇の六大巡幸と昭和天皇による戦後の巡幸に集約されます。いずれも明治維新後と敗戦後という政治的な危機のなかで、天皇をシンボルとして国民の心を一つにしようとする国家統合の試みでありました。
明治天皇の旅行は90数回に及びました。江戸時代の天皇が皇居の外に出るのは、ほとんどなかったのに比べ、大きな変化です。旅行の目的も、神社・御陵参拝、競馬・兎狩など多彩ですが、明治20年代以降は陸軍演習の統監や観艦式の出席など軍事目的のものが大きな割合を占めるようになりました。
六大巡幸とは、明治5年(1872)の九州・西国巡幸、明治9年(1876)の東北・北海道巡幸、明治11年(1878)の北陸・東海道巡幸、明治13年(1880)の甲州・東山道巡幸、明治14年(1881)の山形・秋田・北海道巡幸、明治18年(1885)の山口・広島・岡山巡幸をさしています。巡幸の目的は民情を知り、国民の貧しい生活の実態を直に見ていただくことです。
東北・北海道巡幸に先立ち、5月22日内務卿大久保利通は先行して現場を訪れ、県・道関係者と協議を尽くしながら巡幸の段取りを練り上げていきました。休泊の段取り、行幸による視察順路などが地域を熟知した県関係者らとの協議により立案されていったのです。安全性を重視しながらも、天皇による地方産業の視察と功労者や地方の吊士との接触の推進や戊辰戦争の敗者と勝者への配慮など、大久保によってこの巡幸はプロデュースされたのです。
この巡幸の最大の特徴は、巡幸によって今まで天上の人として敬われていた天皇を身近な存在として認識した人の数が、明治5年の巡幸とは比較にならないほど多かったことがあげられます。これは九州・西国巡幸が海路を中心とした巡幸であったのに対し、東北・北海道巡幸は奥州街道を日々刻々と漸進する巡幸であったため、この様子が多くの人々の目に触れ、また天皇一行を目の当たりにしなかった人にも、直接目にした人たちから話を聞くことによって、その体験を共有することができたのです。また、東京日日新聞に連載された明治初期の先覚的新聞記者岸田吟香の巡幸記事などを通して、読者が営む単調な日常生活のなかで非日常的な天皇一行の動きを知ることで、天皇や巡幸のイメージが増幅され、かたちを変えて強く印象づけられて記憶されていったのです。さらに巡幸終了後にも、さまざまな出版物の刊行によって、時空を越えて巡幸が繰り返し多くの人々に追体験されたことがその理由と考えられています。
このような巡幸の積み重ねは、天皇にとっては国民の儀式であるとともに、日本を代表する主人公として国民に見られる存在であることを意識せざるを得ないものとしたのです。一般国民から見れば日常生活において遠い存在である県令が恭しく先導した鹵簿(天皇の行列)の中心に位置した天皇の視線を、郷土の風土のなかで意識し、当事者である天皇の視界の中にいる自分自身を初めて強く認識したのです。こうした天皇と国民の関係は、大久保による先発隊と県・道関係者の協議による演出や諸儀式の過程、そして喧伝に大きく影響されていることはいうまでもありませんが、その演出に国民自身がとけ込むことによって増幅されていったのです。巧みな演出のなかで天皇と国民の位置関係は階級を超えた雰囲気に包まれていたのです。東北・北海道巡幸は、天皇と国民の多様な接触と意識の変化をもたらす大きなきっかけともなりました。この巡幸で官国弊社(神社を国家が直接管理した時代の社格の一つ)・皇子皇女御墓・招魂場への御拝または勅使差遣、勅語・金幣の下賜、勤王家の顕彰と祭粢料、吊望家や長寿者・奇徳者・孝子などへの褒賞や下賜金など、儀式として定型化していったのです。また、祭祀に伴う祭文も武蔵国(現在の東京都,埼玉県のほとんどの地域,および神奈川県の川崎市,横浜市の大部分を含む)一の宮である大宮(埼玉県)の氷川神社で行われて以降はこれに準じて実施されるなど、東北・北海道巡幸を契機に儀式やこれに伴う諸事の制度化が進められていったのです。《
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