日本の近代化にとって大きなご存在であられた明治天皇(1852~1912)は、すぐれた数多くの和歌を残されました。天子として語れぬ胸の内を和歌にとどめられたのでしょうか。
国民のおくりむかへて行くところさびしさ知らぬ鄙の長みち
この和歌は、どんなに疲れていようとさびしかろうと国民の送迎に接すると、そんな疲れはすぐ忘れてしまうという心の内を詠まれたものです。
年どしに思ひやれども山水をくみて遊ばむ夏なかりけり
毎年山深い谷川のすずしい山水を手に汲んで、心豊かなひとときを過ごしたいと思いつつ、多忙のためかなえられないご様子を詠まれたものです。
天をうらみ人をとがむることもあらじわがあやまちをおもひかえさば
自分も過ちを犯すのだから、他人をとがめることなどすまいとするご心情を詠まれたものです。
あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな
凪いだ湖のおもてのように、むらのない明るく広い心得をもった自分でありたいという心のうちを詠まれたものです。
日本近代の黎明の時代、真摯に重責を果たされた明治天皇のお心のうちが伝わってくるのではないでしょうか。
明治天皇は最後まで公務を優先されました。明治45年(1912)7月10日、病をおして東京大学の卒業式に臨席され学生をお励ましされましたが、まもなく薨去されました。文豪徳富蘇峰は薨去された天皇に最大限の弔意を表する一文を捧げますが、当時の国民の多くも同じような気持ちで天皇を葬送したのではないでしょうか。
「公平にいえば明治天皇は、天皇と同時代若しくはその前後における世界の君主若しくは元首の中において才能とか手腕とかいう点はしばらくおき、その風格において、その襟度において第一等の御方と申すより他に言葉はあるまい。
それは、天皇が一国の君主としての位置に最も相応した御方であったためである。天皇は国と民の他には、ほとんど余念なき御方であった。如何にすれば日本を最善の国となすか、如何にすればこの民を最善の民となすか、ということに心身を消耗して一生を終わり給うた。
天皇は決して、漢の武帝や唐の太宗や、あるいはカイザルやナポレオン等と対照すべき御方ではなかった。彼らは実に英雄であり豪傑であり、ある点においては超越人であった。しかし彼らは決して理想的の君主でもなければ、元首でもなかった。これに反しわが明治天皇は、彼らと比ぶればむしろはなはだ質実であり素朴であり、地味であらせられたるにかかわらず、実に理想的の人君であった。
天皇には一切芝居気なるものが無かった。我が国の人物中にも芝居気の最も逞しき役者は豊臣秀吉であった。もし天皇に若干の芝居気があらせ給うたら、世界は挙げて、天皇を崇拝随喜したかも知れぬ。しかれども天皇は役者たる事を潔しとし給はなかった。いかなる場合でも、天皇本来の面目以外のものを他に示し給うことはなかった。
この点において、天皇は素人向きではなく、全く玄人向きであらせられた。天皇の大御心は大向こうの人気や世情の評判を相手とせず、ただ天と神と国と民とに奉仕するのみであった《。
日本の近代化に大きな役割を果たした明治天皇の気魄が伝わってくるようです。
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