トップページへ仙台藩最後のお姫さまみちのくの文学風土
みちのくの和歌、遥かなりみちのくの指導者、凛たり武将歌人、伊達政宗
 
奥の細道を行く
2002年1月31日


 古くから日本人は、木や草を素材とした家に住み、紙一枚の障子で外と接する生活をしてきました。半永久的なレンガや石を素材とする西欧の住宅と異なり、木は燃えやすく朽ち果てやすい素材です。紙一枚の障子だけで仕切られている生活は、自然の移ろいや鳥の声、虫の声にも常に親しみをもち、その一つ一つの仕草にも心躍らせる心を養いました。繊細な優しい気持ちで自然のあるがままと接してきました。生きとし生けるものの美しさはかなさ、生きることの貴さをしっかりと心に刻み込んできたのです。

 日本人は農耕民族です。月を見て月の動きにあわせ生活をしてきました。月に関心を持っていました。月を素材にした数々の和歌や俳句を詠んできました。西洋人は遊牧民族です。野営の草原で星を見て、星に限りない思いを寄せました。西洋の文学には星を素材としたものが多いのに対し、日本の文学は月に素材を求めました。日本人は花や鳥や虫の姿や声に、豊かな季節の変化を感じ、またそれに心を託した細やかな心を養った民族です。日本人は万葉の時代から今日まで和歌や俳句を自分の心を表す手段として、教養を磨く一助として、日常生活の嗜みとして、言葉の持つ馥郁たる余韻を楽しんできました。このような文化を一千年以上、脈々と伝えてきた民族はいません。さらにこの時代の文学を一つのジャンルとして語れる文化を持った国はありません。源氏物語、枕草子、竹取物語、古今和歌集、紫式部日記、伊勢物語。日本には数多くのものが残されていますが、同時期のイギリス、フランス、ドイツなどにこのようなものが残っているのでしょうか。残っているとしても数えるほどしかありません。

 一方、遊牧民族の星の文化は15世紀に始まる大航海時代を生み、果敢に大海原に乗り出し世界を植民地化しました。日本は、それぞれの文化に新たな息吹を与え、最高度に昇華させました。俳聖松尾芭蕉(1644〜94)もその役割を果たした一人です。

 江戸時代前期の俳人松尾芭蕉は、伊賀国(三重県西部)上野に生まれ、後年は江戸深川の芭蕉庵に住み、各地を旅して数多くの名句と優れた紀行文を残しました。 

 「俳諧七部集」は、蕉門の代表的撰集とし「冬の日」「春の日」「曠野」「ひさご」「猿蓑」「炭俵」「続猿蓑」の七部を合した書です。

 「野ざらし紀行」は1684年(貞享1)秋、伊勢(三重県の大半)を経て郷里伊賀に帰り、大和(奈良県)から近江(滋賀県)、美濃(岐阜県南部)、尾張(愛知県西部)、甲斐(山梨県)を回り、翌年江戸へ帰るまでの紀行文です。

 「笈の小文」は、1687〜88年(貞享4〜5)の尾張、伊賀、伊勢、大和、紀伊(和歌山県)を経て須磨(神戸市南西部)、明石(兵庫県南部)遊覧に終わる紀行文です。 「更科紀行」は、一六八八(元禄一)芭蕉門人越智越人を伴い、尾張から木曽路を通り、信州(長野県)更科の里姨捨山の月見に行った時の小紀行文です。
 「奥の細道」は、1689年(元禄2年)のみちのくの旅を文学化した作品で、旅の目的は、能因、西行などの跡を辿る風雅探訪の旅であります。この旅を通して蕉風の不易流行の理念が醸成されたといわれ、わび・さびの理念もこの旅の結果から生まれました。芭蕉にとって奥の細道の旅は、彼の俳諧的人生の形成のうえに重大な意味をもちました。

 里程は600里(2400キロメートル)7カ月におよぶ旅で、3月27日門人曾良をともなって江戸を出立しました。みちのく入りした芭蕉は、多賀城碑を見て、「疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也」と記していますが、この旅を記した紀行文「奥の細道」は、日本の文学を語るうえにおいて、欠くことのできない大きな影響を与えています。