古くから、日本海を通して都との交流の盛んだった秋田県は、重厚な歴史を積み重ねてきました。秋田市内には、秋田の地誌などを数多く残し角館で没した菅江真澄や彼が逗留した奈良家住宅(国指定重要文化財)などが残されています。
幕末の激動期、平田篤胤(1776〜1842)は、二十歳のとき脱藩して江戸に上り本居宣長の著書を学んで古学を志し、平田学を唱えました。平田学は反幕府的要素はありませんでしたが、その尊皇鼓吹や儒教攻撃に幕府の目が光り、著書の刊行差し止めのうえ郷里に追放され、1843年(天保14)六十八歳で没しました。しかし彼の多くの門下生によって秋田藩内では尊王攘夷運動が盛んでこうした背景もあり、いち早く奥州列藩同盟を脱退して、東北諸藩のなかで唯一官軍として戊辰戦争を戦いました。
その前後の佐竹藩を舞台にした長編歴史小説『黎明に戦う』の作者今野賢三は、『種蒔く人』の同人としても知られています。『種蒔く人』は小牧近江が、バルビュスの反戦平和を求めたクラルテ運動の影響を受けてフランスから帰国し、金子洋文、今野賢三、山川亮、畠山松次郎、近江谷友治らと語らって刊行したのが、秋田県の土崎版といわれるもので、金子らの文塾小品もありましたが、小牧らによる第三インターナシヨナルの時代的先駆でした。
秋田市の風物詩竿灯は睡魔退治の行事、ネブリガシの一つともいわれ、江戸中期の文献『雪の降る道』にも登場してきます。沢野久雄は『円形劇場』で、「たしかに広い道は灯の海になっていた。いや灯の河である」とその驚きを綴っています。旭川に沿った飲食街、川反もしばしば文学の中に登場してきます。 正岡子規は『ホトトギス』に「…秋田の片田舎に怪しき者あり。名づけて露月という。揮沌の孫、失意の子なり。(中略)如かず疾く失意の酒を呑み、失意の詩を作りて奥羽に呼号せんには。而して後に詩境益々進まん。往け。…」と愛情あふれる惜別の文を寄せました。帰郷後、露月は俳誌『俳星』を創刊、秋田の俳句振興に努めました。
・花野ゆく耳にきのふの峡の声 露 月
日本農民文学会会長を務めた伊藤栄之介は、『鶯』『警察日記』で知られます。ともに警察を舞台とした農村の貧しさへの怒りを愛で包んだ作品です。
戦後、国策として行われた八郎潟干拓工事は伊藤栄之介の『消える湖』、瓜生卓造の『八郎潟』、高井有一の『夜明けの土地』など新しい風土の出現による多くの作品を生みました。
ナマハゲの里男鹿半島のつけねにある寒風山は、しら木もまとわずしょうしょうと成る風に吹き曝され、多くの人々に様々な思いを抱かせてきました。
点々と萱草畦に男鹿青田
田川飛旅子
鹿角市は縄文時代、祭祀・埋葬に関連して作られた巨石記念物であるストーン・サークルとして名高い、環状列石の所在地として知られ、また世阿弥の『錦木』の題材となった伝説を伝えている場所です。「いつのころにや、この里に一人の男あり。女を恋い慕うことあり、幾夜か通いて染め木を立て置くといえども、女の心に叶わずして取り入れることなし、その染め木つもりつもりて塚となる。これを称して、錦木塚という」と古川古松軒は『東遊雑記』に記しています。
錦木の北の毛馬内は、東洋史学の泰斗といわれた内藤湖南(1866〜1934年)の生誕地で、湖南父子三代が眠る仁叟寺があります。湖南は秋田県立師範学校卒業後、上京して新聞記者となり、のち大坂朝日新聞の主筆を務めました。1907年(明治40)京大東洋史講座創設とともに講師となり、のち教授となりました。『近世文学史論』など日本文化論の古典を著し漢文、書道にもすぐれていました。